「いやー、意外と間に合うもんだね〜…」
そう言って、ほっ、と安堵したように笑うの声が、轟音に疲れた耳に心地よかった。
力なく目を開いた赤い瞳を覗き込もうとする彼女の大きな目と、視線が交じり合う。
旅を終えて色んな経験をしても、どれだけ年月が経とうとも変わらない彼女のその目が、イオスはたまらなく好きだった。
「先回りしてがむしゃらに手を突っ込んじゃったけど、苦しくなかったかな…?
あーあ、こんなに震えて可哀相に…」
そう言って立ち上がったの服は、濁った水の飛沫や泥で汚れていた。
彼女と同じく泥だらけの猫を労わるように胸へ抱き上げたとなると、それは少々異様な出で立ちになる。 人が多く行き交う時間帯にそんな姿で街を歩けば注目を浴びることは必須だろう。
何事だ、とそれぞれが目を丸くして彼女を見るに違いない。
――なのに彼女は、笑顔のまま子供たちと別れ。
軽い足取りで、昨夜の雨で湿ったままのゼラムの白い路を歩きながら、音だけの歌を口ずさむ。
音のずれた鼻歌はよく晴れた青い空に吸い込まれて、世界にやさしく溶けていった。
「今日は晴れてよかったねー」
今では当たり前になった、彼女がそばにいることの日常。
そのたびに僕は、何度、彼女に恋をすれば気が済むのだろう。
「ふーんふんふん、ふーふんふんふん、ふんふん♪」
上機嫌な音を乗せた鼻歌が、湯気に包まれた部屋に響く。
歌っているのはだ。
彼女は湯船に張られた湯の温度を、指先ですくうように確かめて満足そうに頷くと、花の香りがする石鹸とブラシを並べ始める。 着々と準備が整いつつあるそれに、泥だらけのイオスはふかふかのタオルがしきつめられたカゴの中で”どうして彼女はこんなに機嫌がいいのだろう”と不思議そうに見つめていた。
「ふんふーん…っと、よーし、できた! ささ、今からきれいにしてあげるからね〜」
揺らさないようにカゴごとイオスを浴室に運ぶと、は一度脱衣所に戻る。
そんな彼女の行動を、イオスはやはり見守るしかない。
溝に落ちて濁流にもまれたせいで体力はほとんど尽きた。 冷たい水で体温が下がり、まだ手足の感覚が鈍い。 動こうという気力もほとんど残っていなかった。
たった数分の出来事だったがイオスはのおかげで命を拾ったことは間違いない……イオスは泥に汚れた毛を舐めながら、赤い瞳をすっと細めた。
(…しかし、が来てくれて助かった)
イオスの本来の目的は、ジラール邸のミモザ・ロランジェを問い詰めることだ。
は”傀儡戦争”が終結したあと、護衛獣のレオルドとレシィと共にいまもジラール邸に住まわせてもらっている――それゆえに、彼女の帰る居場所はイオスの目的に他ならない。
子供たちに追いかけられていたため行くべき道を見失っていたが、この結果はまさに不幸中の幸いだ。
(ついでに洗ってもらえるようだし、ここは大人しくしておくか…)
さすがに泥だらけでは気分もよくない。
なにやら準備をしているらしいの慌しい足音にほっと息を吐いて、浴室に立ち込める湯気で冷えた体をじんわり温めながら彼女が戻ってくるのを待っていれば、「おまたせー」と勢いよく扉が開いた。
ぺたぺたと響く足音に、イオスが不意に顔を上げると。
(―――??!!!!!)
「さて、まずは泥から洗い流さないと」
泥だらけの体がふわりと浮いて、白くやわらかな胸へと抱き寄せられた。
衝撃のあまり硬直したイオスを抱いたまま、は風呂椅子に腰かけると、ぴくりとも微動だにしない猫の様子を気にもとめず桶にお湯をすくいあげる。 ざぁっとかかる温かな湯が、小さな全身にこびりつく乾いた泥を流し始めた。
「わ、汚れてて分かんなかったけどすごく綺麗な猫だったんだ」
(な、な、な)
「瞳もルビーみたいだし、毛なみも金色でやわらかーい。
…もしかして高級住宅街に住んでる貴族の飼い猫かな? あそこに住んでるネスやラウル師範なら飼い主も分かるかも…」
丁寧に、やさしく体を洗い流すの賛辞はイオスの耳にまったく入ってこなかった。
それどころかを直視できない。
どうやら彼女は脱衣所に戻ったあと――泥に汚れた自分も風呂に入る気でいたらしい。 今のは髪をまとめて束ねただけで服を着ておらず――つまり、裸だった。
「ほら、ちゃんと足も洗わなきゃだめだったら。 家の中が泥だらけになるでしょ」
(ぅ…うわぁぁぁっっっっ!!)
甘すぎる誘惑に、イオスの混乱は絶頂を極めた。
一体どうしてこんなことに――いやそもそも猫の姿になっていた時点ですでに何かが起こるのではないかと予感はあったわけなのだが――まさか、こんな展開になろうとは。
「あれ、大人しくなった…今のうちに洗っちゃおう」
(−−−−!!!!!)
イオスの全身をまさぐりながらシャンプーを泡立てるをなんとか見ないよう必死に目を背けた。
女性経験がないわけではない。
だがそれとこれとは話が別だ――は、大切な友人でもあるのだ。
イオスはを心から信頼しているし、また、彼女に心から信頼されている自覚もあるぶん許可なく彼女の肌を目にすることにはさすがに良心が咎める。
夢や想像上でしか見ることの叶わなかった白い裸体を惜しげなくみせつけられるこの状況は――果てしなく、まずい。 人間に戻ってからと会うたびにこの時のことを思い出して、罪悪感から彼女の目を真っ直ぐに見られなくなる。
な、なんとかしなければ。 しかしどうすれば――。
そんな、ぐるぐると混乱した思考のなかでの決断は、早かった。
(逃げよう…!)
「あ!」
泥も泡も洗い流され、体もじゅうぶん温まった。
鳴き声をあげての腕から飛び降りて、浴室の扉をすり抜け脱衣所めがけて突っ走る。
幸いなことに脱衣所から外への扉はちゃんと閉じられていなかったようで、わずかに開いた隙間は小さな前足で押せば十分通れるほどに開いた。 これなら猫になったイオスでも脱出が可能だ。
背後から響くの制止を振り切って、イオスは弾丸のごとく廊下へ飛び出した。
――が、扉の影から急に現れた二本の足が行く手を遮り、再び彼の足を止めてしまう。
(――!)
本能の訴えに従い、身をねじることでなんとか衝突を避けるとイオスは軽やかに着地する。
見覚えのある靴にばっと顔を上げるとそこには――ネスティ・バスクが、驚きを隠せない表情でイオスを見下ろしていた。
「何でこんなところに猫がいるんだ…?」
(…それはこっちの台詞だ)
彼と顔を合わせるのは久しぶりだ。
イオスも騎士団のことがあったし、戦争終結後、<蒼の派閥>で昇格したネスティは何かと多忙な毎日を送っているらしくしばらく会うことはなかったが、しかし、多忙な彼が何故この家にいるというのだろう。
しばらく見ない間にずいぶん顔つきが変わった。
あの旅を思い返す暇がないほどの目まぐるしく日々が過ぎていったせいだろうか。
初めて会った頃に見た眼鏡の奥の陰鬱な光は消え失せ、常に人を寄せ付けまいと緊張していた雰囲気もなく、猫を見下ろす表情には呆れが含まれているもののやわらかだ。
もちろん、自身の背負う責任から手厳しい面もあるだろう。
騎士団に顔を出したマグナとトリスの話を聞くと、もともと真面目で誠実な彼は「博識だ」と派閥内外でも評判が良く、家柄も召喚師としての実力も申し分ないので<蒼の派閥>の代表として<金の派閥>のファミィ・マーンとの会合に参加や、様々な研究を受け持つようになったとか。
大出世もいいところだ。
(ん? …待てよ。 ミモザ・ロランジェではなく彼に解毒薬を作ってもらったほうが早いだろうか?)
機界ロレイラルの召喚師だが、彼も研究者であることには違いない。
ミモザが素直に解毒薬を作らないという最悪の可能性も否定できないため、代わりの研究者も確保していたほうがよいではないだろうか。
丸い瞳でじっとネスティを見上げていると、ネスティは先ほどの疑問の答えが思い当たったのか「…あぁ、」と呟いて、小さく息を吐いた。
「またが拾ってきたんだな。
増えたら先輩たちに迷惑がかかるから、やたらと拾ってくるんじゃないとあれだけ言っておいたのに…」
仕方がないな、と呆れた風に言っておいて。
猫を見下ろす眼差しが不意に優しさを帯びたのは、何故か。
――そんなこと、考えなくとも分かる。
「今度拾ってくるときはバスク家の屋敷に連れてくるよう言っておくか。
面倒を見る人間はいくらでもいるし彼女が来ると義父さんも喜ぶ…、それに」
漆黒色の瞳が、秘められた感情に揺れた。
それは普段では目にすることの叶わぬ、彼の一部を垣間見る――他人との触れ合いを頑なに拒みながら生きてきた男が、他人と触れ合えるようになった今でも言葉にできずにいた想いを、ゆるやかに吐露する。
「…この猫を引き取れば…彼女に、会える」
それはとても小さな呟きだったが、イオスの耳にしかと届いた。
これまでずっとの友人として接してきた彼の、心の声。
誠実で、生真面目な彼らしい想い――しかし、彼女を想い続けてきたのは彼だけではない。 旅を終えても消えないものを抱え続けているのは、自分も同じだ――言葉にし難い複雑な感情が喉奥まで込み上げ、呻くように唸り声をこぼしかけたそのとき、イオスの背後にある脱衣所からドタバタと大きな足音が響き、ハッと我に返った。
猫を抱き上げようと手を伸ばしかけていたネスティもその音を耳にして、不思議そうに目を瞬かせる。
「やけに騒がしいな。 一体何が…」
「こらーーーッ待ちなさい! まだ乾かしてないんだから――!!」
ネスティに気を取られている間にがイオスに追いついた。
開いた扉の隙間からにゅっ!と腕が伸びてきて、がしっ!と勢いよくイオスの胴体を掴んだ彼女は逃がすまいとしてかそのままぎゅうっと抱き寄せてしまう――丈が短く、薄いタオルを一枚巻いただけの裸の胸へと。
布越しとはいえどうしようもなく伝わるやわらかい感触は、イオスにとって地獄なのだか楽園なのだか。
「もー逃がさないんだから! 大人しく――…」
そこで、最後まで言い切らないうちにの言葉がとまった。
すぐそばで、呆然と立ち尽くすネスティに気がついたからだろう。
旧友に会えたことで彼女の顔にぱっと笑顔が浮かぶも……それはすぐに、強張る。
もう一度言おう。
タオルを巻いているとはいえ今の彼女は――裸同然だ。
「っ…ひ、」
「…ぁ、す、すまな…っいや、君は、なにをしてるんだ! そ、そんな格好で」
謝りたいのか、たしなめたいのか。
何を言いたいのかいまいち把握しかねるネスティの頬や耳が、鮮やかな朱に染まっていく。
彼はすぐさまぱっと目を逸らしたつもりだろうが、すでに遅い。
眼鏡を抑えるようにして手で顔を覆う彼の網膜には白い肌がしかと焼き付いていることだろう――イオスは現在進行形で、目どころか体全身に彼女の感触を焼きつけられている状況なので「見るな」と止めることも出来やしないのが悔しい。
とりあえず、今の自分に出来ることはただひとつ。
「……〜〜〜〜〜、いやあああああぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
―――イオスは、この場にいる全ての者のために、合掌した。