「あっちに行ったぞー!」
「まてまて〜」
「わ〜ん、おいてかないでよ〜!」

 夜通し降った雨で湿った石畳の群れを、ぱたぱたと軽やかな足音が過ぎていく。
 白亜の街並みの隙間を縫うように駆け回る子供たちの笑い声は、晴れた空の下でよく響いた。
 彼らとすれ違う大人たちは「転ばないようにするのよ」とたしなめながらも優しい眼差しを向け、小さな背中をそっと見守りながら各々の仕事に精を出し、今日という一日を過ごすのだろう。

 それはなんと穏やかで――平和な街の姿。
 雪に覆われ、他国からの侵略を許さぬ断崖絶壁にそびえたつ自国では目にすることが叶わなかったものを、敵国として侵攻した国で見ることになろうとは、二年前までの自分たちは考えもしなかっただろう。

「あれ、消えたぞ!」
「うーん…あ、あそこの角っこにいる!」
「待って! にゃんこさ〜ん!」

 そうだ。 今は、平穏な街並みに思いを馳せている場合ではなかった。
 しなやかな肢体をぐっと縮めると、バネと同じ反動を利用して高く跳躍する。
 ふわりと揺れる美しい金の毛色が陽の光に触れてきらきらと輝いて、軽々と塀の上に着地するその姿は、子供たちの目を好奇心でよりいっそう輝かせた――それは、”彼”にとって最悪な反応だ。

 いい加減諦めてくれないだろうか…。
 おもわずげんなりとした表情で塀下の子供たちを見下ろす。
 だがしかし、あどけないその顔のどれもが、それはそれは、太陽にも負けないくらいのまぶしい笑顔を浮かべており……。


「きゃーかわいいー!!」

「絶対捕まえてやる! 俺、あっちにまわるから!」

「捕まえられたらわたし、飼ってもいい?ってママにお願いしてみる!」



(……どうして、こんなことになった……!)



 子供特有の無邪気さに、背筋に伝う薄ら寒いものを感じずにはいられないイオスであった。











 ――さかのぼること小一時間前。
 がんがんと響く鈍い頭痛が、深く沈んでいたイオスの意識を揺らしたことから全ては始まった。

(…、何が…っ…)

 気がつけば、自分の体は床に倒れていた。
 全身がだるく、指先や足先の感覚がない。
 どれほどのあいだ意識を失っていたのかも判断がつかなかったが、窓辺から差し込む陽光の明るさは、今日の夕暮れがまだ遠いことを知るには十分だった。
 身動きできない体のせいで見慣れた天井をしばしながめるしかなかったが、徐々に感覚が戻ってくるのを感じ取ると、イオスはよろよろと身を起こして周囲を見渡した――<巡りの大樹自由騎士団>の特務隊副隊長として与えられた自室は、特に何の変化もないように見えた。

(…っ、頭痛がひどいな…)

 思考に頭を使うのが嫌になるくらい不快な痛みがイオスにまとわりつく。
 顔をしかめたまま面をあげると、よく見知った、黒い鎧と騎士団の外套が床に落ちている光景が目に入って、一瞬、痛みも戸惑いも何もかもが頭から吹っ飛んだ。

 見慣れた黒い鎧。
 見慣れた外套。
 それが誰のものか、頭を使わずともわかる―――。

(ルヴァイド様!!!)

 弾かれたように意識が覚醒して、急激に記憶の一部が蘇る。
 そうだ。 自分は、彼と騎士団の今後について話し合っていたところだったはず。

 まとまりかけた対策。 見習い騎士たちの指導内容。
 そこまでは思い出せるのに、何故、意識を失う前後の記憶が抜け落ちているのか――とにかくそれを考えるのは後回しだ。
 イオスは倒れているのであろうルヴァイドの元へ慌てて駆け寄ろうとしたところで、地面に広がったルヴァイドの外套が急に盛り上がり、まるで生き物のようにもぞもぞと蠢いたのを見ておもわず、びくりと動きを止めてしまった。

(な、…)

 かつてない不気味さと衝撃を覚え、イオスはごくりと息を呑む。
 もぞもぞと忙しなく蠢く、敬愛する上司の外套のなかには一体何が入っているというのだろう。
 いやそれより、衣服の何もかもを脱ぎ捨ててルヴァイド様は一体どこへ行ってしまったんだ――イオスの思考があらぬ心配をしかけたそのとき、それはついに、ぬうっと姿を現した。

 そこには、


(……………いぬ?)


 ルヴァイドの外套からひょっこりと顔を出したのは、どこからどう見ても――犬だった。

 外套の下をばさりと抜け出し、しなやかでたくましい四肢をもった大きな犬が現れる。
 三角の両耳をぴんとたて、芳醇な香りを連想させる葡萄色をした毛色と同じ切れ長の瞳をしたそれにはどうしてか、どこかで見たような、何かを思い出さずにはいられないような、そんな既視感を覚えて仕方がない。

 そこでようやく疑問が声になってこぼれおちた…、のだが。


「にゃー…(どうして犬がいるんだ…?)」

「ウー…(猫に知り合いなどいないはずだが…)」


 各々の口からこぼれた――明らかに人語ではないそれに、両者は互いに絶句した。







(――つまり我々は、犬と猫の姿になってしまったわけだが)


 幾多の戦いをくぐりぬけた歴戦の戦士でもあるルヴァイドは、さすがに立ち直りが早かった。

 ルヴァイドは葡萄色の毛並みの大型犬に。
 イオスは絹のようになめらかな金の毛色をもつ、くりくりとした赤い瞳の猫に。
 お互いに戸惑いはあっただろうが、この状況を至極冷静に分析しようとしている彼のおかげでイオスも冷静さを保っていられた。
 ”やはり、この方に一生ついていこう”と改めて心に誓ったところで、イオスは胸を過ぎる不安は拭えずにいる……冷静になればなるほど、これが不味い状況だということを思い知らされるからだ。


 <自由騎士団>の特務隊隊長と副隊長が、誰かに何かを告げることなく蒸発――。
 その事実は、設立されたばかりで不安定なこの組織を大なり小なり揺るがすだけでなく、騎士団長のシャムロック、元敵国の軍人だったルヴァイドたちを騎士団に推挙してくれた<蒼の派閥>の総帥エクス・プリマス・ドラウニーの立場も危うくするだろう。
 王族の承諾を得て設立されたからといって、王族と同等の権力を持つ一部の臣下のなかには騎士団の思想を快くおもわぬ者もいるのだ――隙あらば突き崩そうとする存在を危ぶむからこそ、ルヴァイド(犬の姿ではあるが)の表情も曇る。
 かつては敵だったとはいえど、長い時間をかけてようやく築かれたものが自分たちのせいで朽ちることは、彼の本意ではないのだ。

(他の者は無事なのか……一度外に出て、状況を把握する。 イオス、ついてこい)
(はい!)

 きりっとした面差しで入り口へと歩き出す犬の隣に、金の毛色をした華奢な猫が隣に並ぶ。
 この状況を打破せんとして決意も新たに部屋の外へと踏み出した二人…いや二匹は。

 目の前に広がる光景に、またもや絶句した。

「ワオーン!」
「にゃあ〜にゃあ〜」
「わんわん! ウーッ」

 ――普段なら、若い騎士たちが訓練に励む修練場。
 そこには何かの溜まり場のごとく、様々な種類の犬と猫が群がっていた。
 この犬猫たちがどこからやってきたのかという疑問は――考えるまでもないだろう。

(………ルヴァイド様、まさかこれは…)
(………もうこの騎士団は終わったかもしれんな…)

(――ルヴァイド! イオス!)

 呆然と立ち尽くす二匹に、茶色く毛並みをもった大柄な犬が長い毛を揺らして駆け寄ってくる。
 人懐っこそうな、純朴な瞳をしたその犬が誰であるか。
 こちらも考えるまでもなくルヴァイドとイオスは理解していた……わふわふと息を弾ませてやってきたその犬に、イオスがずばり言い当てる。

(シャムロックか?)
(ああ。 二人とも無事でよかった…)
(これを無事と言うには微妙なところではあるがな…)
(私にも何が起きているのか分からない…ただ、騎士団の全員が犬と猫になってしまったらしい)

 状況は自分たちが考えている以上に、最悪らしい。
 全員=犬猫というのは騎士団壊滅の図式そのものだ。
 これがもし外部に漏れたら混乱は必須。 騎士団設立の反対派にとって都合の良い事件になるだろう…これが戦いならまだしも、あまりの出来事にどうすればいいのかまるで検討もつかず、途方に暮れてシャムロックはしょんぼりと尻尾を丸めてしまう。

(このまま騎士団が解散になってしまったら、私はリゴール様に合わせる顔がない…)
(諦めるのはまだ早い。 なんとかして元の姿に戻らねばならん)
(しかし原因が何なのかも突き止めなければ繰り返してしまう恐れもあります…)

 大型犬二匹、一匹の猫が「う〜ん…」と思案するように天を仰いだ、そのとき。

(シャムロックさまー!)

 そんな彼らの元に、額に傷のある茶色い小型犬がたたたっと駆け寄ってきた。
 まだ幼く、まるくくりくりとした青い瞳と、首にぶら下がった緑石のペンダントが陽の光に触れてやさしい輝きを放っている。 それは、サイジェントの孤児である彼が物心ついたときから身に着けていたものだと聞いたことがあった――ならば、その犬が誰なのかすぐに理解する。
 東のサイジェントからやってきた騎士見習いのアルバだ。

(シャムロックさま! おいら、原因になりそうな話を聞いてきました!)
(何か分かったことがあったのか?)
(はい! ええと、まずひとつは、この騎士団の建物の地下に呪いがかけられていると噂が…)

 …いまいち信憑性に欠ける、とそれはイオスの素直な感想だ。
 被害者側でもある騎士団の連中に話を聞いて分かることは、少ないかもしれない。 あまりアテにしないほうがよさそうだなとイオスはため息を吐きながら、耳を傾けた。

(…そんな噂は初耳だが…他には?)
(はい! あとは、騎士団反対派の憑依召喚術。 <蒼の派閥>総帥直々の抜き打ち訓練。 聖王国特有の流行病。 今日の昼食がじつは腐っていた…などなど)

 やはり、どれもこれもいまいちピンとこない。
 つらつらと並べ立てていくアルバの情報を、イオスはついには聞き流す程度にまで関心を失いかけたとき。


(あとは――ロランジェ家からの差し入れ薬草スープ、てところです。
 あ、でもミモザさんはこんなことする人じゃないですし、おいら的には抜き打ち訓練か流行病かなって)

それだァァアアァ―ッッ!!

(薬草スープの部分は聞き捨てならん…間違いなくそれだな)


 最後に飛び出た情報に、猛烈な勢いでイオスとルヴァイドが食いついた。
 ただの動物にはない迫力と醸しだす二匹(うち一匹は猫パンチ込みノリツッコミ)に迫られ、きゃいんっと悲鳴をあげてアルバの全身が飛び上がった。
 くりんとした尻尾を股下に丸めてぷるぷると震えながらシャムロックの後ろに隠れるその姿があまりにも哀れさを誘ったのか、シャムロックがたしなめるように一鳴きする。

(イオス、アルバに責任はない。 脅かすのはやめるんだ)
(…っく、そうだな。 責任があるとすればミモザ・ロランジェか…ルヴァイド様、原因は判明しました。 あとはミモザ・ロランジェを追求しましょう)
(うむ…ならばイオス、お前にその任務を任せた。
 俺とシャムロックはこの者たちが外に出ぬよう取り締まろう)

 とにかくやるべきことは決まった。
 一同はそれぞれ深く頷いたあと、シャムロックとルヴァイドは修練場を見渡すことのできる階段の一番上に立ち並び、堂々たる姿をその場にいる者に見せつけて――。


「「ワォン!!!!」」


 おもわず平伏したくなる迫力のある一鳴きで、その場にいる者を見事黙らせた。
 好き放題に遊んでいる犬と猫を一列に整列するよう、放牧犬のごとく追い立てる姿を見届けたあと、イオスは自らに課せられた使命をまっとうするべく、ひらりと身を翻す。


 そうして、聖王都ゼラムの白亜の街へ。
 まだ湿った地面の感触に顔をしかめながら、全速力で駆け出したのだった―――。









「まてまてー!」
「くっそー、もう少しなのにぃー!!」

(…っく、なんてしつこいんだ!)


 子供というのは好奇心に従順で、自由であり、無邪気であり、こうも恐ろしいものなのかと初めて実感した。

 イオスは湿って滑りやすくなっている石畳のうえを、全力で走り続ける。
 時々尻尾を掴まれそうになってひやりとしたものの、本能が危機を察知し、ぐわっとのびてくる手をするりと抜け出す冷静さをもったイオスのほうがまだ上手だ。
 なんとか捕まらずにいられるが、いつもより低い視点では住み慣れたゼラムが初めて訪れる街のように錯覚して、現在地がどのあたりなのかさすがに分からなくなってくる。

 ミモザ・ロランジェがいるジラール邸はこの方向であっていただろうか……?

「絶対俺が飼うんだ! ……っとりゃー!!」
(…しまっ…!)

 意識を別方向へ持っていったのが間違いだった。
 体当たり覚悟で飛び込んできた少年が、イオスを捕まえんとして全身で飛びついてくる。
 反射的に飛び退くものの、夜通しで降り続いた雨のぬかるみに足をとられ、イオスの小さな体は奇妙な方向へ投げ出された。


「あ―――!」

(―――!!)


 視界の隅で、青ざめた少女の顔がちらついた。
 しかしその表情の意味考える間もなく、イオスの全身は濁流に飛び込んだ。
 雨で増水した溝は思いのほか深い――そうだった、いまは猫の体だ。 それは普段、気にも留めないものはイオスの危機にも繋がるだろう。 人間にとってたった数十センチの深い溝は勢いのある濁流と化し、もみくちゃに揉まれるようにイオスを翻弄して押し流そうとする。

(もう、だめだ…)

 息ができないと死んでしまうのは人間も動物も同じだ。
 騎士団の危機どころか自分の生命の危機となろうとは…しかし非力な肉体ではどうしようもなく逆らえず、意識が遠のきかけたそのとき――ある一人の、少女の顔が脳裏に浮かんだ。


(…………)


 ”傀儡戦争”が終結してからも、ずっと想いを寄せているひと。
 彼女はイオスにとって平和の象徴だった。
 どんなに心が凍ろうとも、彼女が笑ってくれるだけでそれは雪解け水になり、イオスを勇気づけてくれた。

 彼女の傍は、とても居心地がよかった。
 今の関係を壊したくなくて何も言えなかったけれど、本当は、誰よりも君を独り占めしたい。




(―――ぼくは、―――)




 ザバァ――ッ!!


「ね、ねこちゃーん!」
「だいじょうぶ?! いきてるの?!」
「よ、良かったよぉ〜

 弾けるような、大きな水音のあと。
 水の中よりあたたかで、ずっとしずかな世界が、イオスの意識を揺り起こした。
 子供たちの泣きそうな声は、溝に落ち込んだときに聞いた水音に比べたらなんてかわいいものだろう。
 しかしまだ、何が起きたのか理解するのに時間がかかる思考をなんとか動かして、イオスは疲れたように重い瞼をふっと目を開いた。



「……あ、危なかったー……」



 そこには、イオスの両脇を掴んで固まったままのがいた。

パニックアニマルアワー 1

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2011.7.4