カコ――――ン…。
合唱のごとく蝉が鳴き、目も眩むほどの強い日が照る真夏の午後。
庭に備え付けていたししおどしが、小気味よい音をたてて切っ先を持ち上げた。
普段なら、その音が涼を招いてうだるようなこの暑さをやわらげてくれるのに、記録的猛暑の前ではほぼ無意味。 さらに加えて言うなれば、それどころではない事態が今まさに、スーパーで買い物帰りのあたしの目の前に現れたのでした。
(………どっ、どちらサマのものでしょう…か………)
玄関を開けて直後、心の中の第一声だ。
――そう。脱ぎ散らかった男物のエンジニアブーツときれいに磨かれた黒いイタリア製の皮靴が、菊先生の草履の真横に並んでいる。
いや、玄関なんだから靴があるのは当たり前で、そこに突っ込みをいれること自体が無意味であることは分かってはいるのだけれど――自分が目にしたことのない靴がある、という部分を重点に置くとこの突っ込みは必要だとおもう。
非常に重要だとおもうわ。 菊先生が普段では絶対はかないであろうアンティーク加工でゴテっとしたかっこいいレザーブーツが何故ここに?と、ぜひ突っ込みたい。
(アントーニョさん…と、誰かもう一人いるのかな?
それにしても思ったより早く着いたのね。 急いで昼食の準備をしなくちゃ)
今日はアントーニョさんが日本に遊びに来てくれる日だ。
何日か宿泊予定でもあったのでそのための準備も事前にしていたものの、昼食に使う調味料を切らしてしまい慌てて買いに出た。 お客人が早めに到着してしまったことと買い物に時間がかかって遅れたことで行き違いになったようだ。
先に挨拶をしなくては。 と、廊下をぱたぱたと小走りに駆け彼らがいるであろう応接間に向かうと。
「――
膝をつき、声をかけて障子の戸を開けようとしたところに怒声が響いてびくっとなる。
アントーニョさんでもない、菊先生でもない、知らない男の子の声。
言葉の響きからして英語でもない。 これはイタリア語だ。 イタリアといえばフェリシアーノさんなんだけど、彼はこんなに荒っぽくないしいつもの泣き声がまったく聞こえてこないから別人だろう。
思わず声をかけるタイミングを逃してしまい、響く怒声にビクビクしているところに「も〜お前が勝手についてきたんやろ〜しゃーないやっちゃなぁ」とアントーニョさんののんびりした声が聞こえて、久しぶりに聴いたその声に無条件でほっと安心してしまう。
「それに、ちゃんはちょっと買い物に出ていっただけやろ? そんなカリカリせえへんでもすぐに会えるって」
「ちっげーよ。 ちゃんのそれはいいんだよ俺が言いたいのは何でヤローのお前と同室で寝なきゃいけねーんだってコトだよ。 オイ菊、ちゃんと俺を同じ部屋にしろよ」
「私の目の黒い内はそれだけは断じて許しません。 …というか、突然やってきてなに居座り強盗みたいな要求してるんですかロヴィーノさん…」
菊先生の呆れたような声も聞こえた。
何がなんだかわからない状況に??と首をかしげていると、「それはアカンで!」とアントーニョさんが大きな声を出してガタンッとテーブルをたたくような音が…。
「ちゃんと同室とかそれだけは絶ーーーーッ対アカン! そんなん俺やって一緒がええに決まってるやんか! でも菊が」
「アントーニョさん、これから4日間うちの庭で寝ますか? 寝袋ならありますが」
「って言うから我慢してんのに!!
あぁもうやっぱロヴィーノ置いて来れば良かっ…いや、今からでも遅くはないロヴィーノ。 帰ったらキレーなお姉ちゃん紹介したるから今すぐ帰」
「…あ、あの〜…ただいま戻りました…」
ヒートアップしそうな空間に踏み入るにはものすごく勇気が要ったけど。
このまま盗み聞きもよくないので、意を決して障子の戸をそっと開けて顔をのぞかせてみる。
中にはいつも菊先生と、素敵なスーツを少し着崩して男の子に詰め寄っているアントーニョさんと、不機嫌極まりないと言わんばかりの表情を浮かべている男の子が応接間のテーブルを囲んでいた。
久しぶりに見たアントーニョさんは元気そうで、驚いた顔であたしを見返してくる彼の姿に思わず笑みがこぼれる。
「こんにちはアントーニョさん。 遠いところから来てくださってありがとうございます」
「ちゃん待っとったで! 暑いのに俺らのために買い物しに行ってくれてすまんかったな〜!」
「た、ただいまです…って、うわわっ」
アントーニョさんが笑顔全開でバッと両腕を広げたかとおもうと体全体で覆いかぶさるようにあたしを抱きしめてきて、変な声を出してしまった。
挨拶のハグ、というものと分かっていてもいまだに慣れずどきどきしてしまう。
フェリシアーノさんやルートヴィッヒさんにはこうされてもあまり気にならないのにどうして…と、一人で耳まで赤くしてしまうあたしに菊先生が「おやおや」とほほ笑んで見守っているのが視界の端に映る。
それが余計に恥ずかしくて俯いてしまえば、「あ、そうや!」とアントーニョさんがようやく体を離してくれた。
「紹介するわ、コイツは俺の弟分のロヴィーノや」
「あ、はい。 そちらの方は…初めましてですね。
菊先生の身の回りのお世話をさせて頂いております、です。 よろしくお願い致します」
その場でそっと三つ指をついて礼をして、顔を上げると。
「
淡い色で染めた生地にジィリョをあしらったそのキモノも君の白い肌と黒髪によく似合って」
…さきほどの不機嫌そうな顔はどこへ行ったのか。
男の子はアントーニョさんを押しのけてからスマートにあたしの手を取ると、やさしい微笑で口元を緩め、流暢(りゅうちょう)なイタリア語であたしの髪も着物もすべてを褒めてくれた。
それはもうこちらが真赤になって恥ずかしさのあまり逃げ出したいくらい。 けれど彼の雰囲気や髪の色、顔の形やパーツはフェリシアーノさんのそれによく似ていて、その姿にフェリシアーノさんが全力で可愛い!と褒めてくれている光景を思い出してしまい思わず口元が緩んでくすくすと笑ってしまった。
それに男の子はキョトンとした顔になったので、慌てて口元を抑える。
「ご、ごめんなさい。 知っている人にとてもよく似ていたもので」
「ああ、それはそうでしょうね。 さん、その人はフェリシアーノさんのお兄さんですよ」
菊先生が教えてくれた事実に、あたしは「えええぇっ?!」とロヴィーノさんを二度見した。
確かにフェリシアーノさんにはお兄さんがいるという話は聞いていたけどまさかこんな突然に会えるとは思ってもみなかったというか…呆然としながらもがっつり見つめてしまうあたしの手を握ったままのロヴィーノさんは「そ、そんなに熱く見つめられたら火傷しちまうじゃねえか…」とものすごい勢いで口説いてきた割にはものすごく恥ずかしそうにもじもじと体を揺らしている。 あれ、もしかして照れ屋さんなのかしら…?
「ロヴィーノ・ヴァルガスだ。 よろしくなちゃん。 それじゃデートついでに案内でも」
「はい終ー了ー! 挨拶は終ー了ー! いつまで手ぇ握っとんねんロヴィーノッ」
いつの間にかあたしたちの真後ろからヌッと現れたアントーニョさんの手刀がロヴィーノさんの脳天に落とされる。
「いってぇっ!」と悲鳴を上げるロヴィーノさんに「お前ばっかずるいやんか!」と唇を尖らせてブーイングしたのちに、広い背中であたしを隠すように体を寄せた。
いつもはラフな服装でいることが多いのに今日はちゃんとしたスーツのアントーニョさんだったが、途中で窮屈になったのかネクタイゆるめてボタンも開けてすっかり着崩しているのはなんともこの人らしい。
がっしりした背中に少しだけどきまぎしていると、日本の夏の太陽より明るい笑顔があたしに向けられて。
「ちゃん今から昼食作るんやろ? 俺も手伝うで〜」
「あ、ありがとうございます。 それじゃお台所のほうに…」
「トマトもぎょーさん持ってきたで! 今回もまたええやつができてな…」
そして本田家の台所に向かう楽しそうな二人の背中を。
ロヴィーノさんがテーブルに突っ伏しながらものすごい目で見送っているので、残された私…本田 菊はおそるおそる声をかけてみるのですが。
「ロヴィーノさん、どうしたんですか」
「……面白くねー」
「何がですか」
「あのヤローの緩み切ったあの顔、なんだよありゃ。 いつもニヨニヨしてやがるがそれに輪をかけてニヨニヨしてやがる…くっそ、あんなに可愛い子ならフェリシアーノにもっと早く紹介してもらっとくんだった」
ブツブツ文句を言いつつも、それが本気の悪態でないことはロヴィーノさんの表情を見ているとわかりました。
私も伊達に年食っていないといいますか、この人は、まあ、なんといいますか…ある意味分かりやすいといいますかね…。
ロヴィーノさんは長年お世話になっているアントーニョさんが特別にしている女の子が気になって、わざわざ日本まで来てくれたのでしょう。 人の好いアントーニョさんが騙されていないか見極めるために。
それが杞憂に終わったので彼も安心したのでしょうが、けれどそれはそれで複雑な部分もある。 と言ったところでしょうか。 気持ちはわかります。 私もさんを取られて寂しい爺(じじい)状態ですから。
「まあまあロヴィーノさん、何もないところですがゆっくりしていってください」
「問題はそれだよな…日本の女の子ナンパでもいいんだが…とりあえずアントーニョの野郎をからかうのも面白そうだしそっちに専念するか。 スペイン男は愛に情熱的だからな〜俺に妬きすぎてちゃん押し倒したりして」
「そんなラブコメは全力で阻止させて頂きます」