(―――音、だ)




 遠い。
 遠い。
 とても遠い場所で、それは聴こえてくる。
 眠り落ちるあたしがいるこの暗い世界よりもずっと、ずっと遠いどこかで。




(―――雨の、音…だ)




 瞼は重く、持ち上がらない。
 だから目を閉じても分かるその音で、雨が降っているのだと理解する。
 ここよりも遠い場所で降る、雨。
 雨。
 雨。
 雨。
 あめ。
 あめ。 あめ。 あめ………あ、バサッ、て音も聞こえた?


(―――、音…)


 まるで、鳥の羽音のよう。
 雨とは違い、とても近くで響いてくる。 大きな鳥が近くにいるのだろうか。
 それにしてはなんて軽くて雑音のない、清らかな羽音なのだろう。
 触り心地が良くて、ふわふわしてて、気持ちよさそう。 温かそう。




(あは…、まるで―――の、羽みたい)




 ぐにゃぐにゃと混濁した意識が、誰かの名前を呟いた。
 けれど、自分で呟いたはずなのにあたしはそれがどういう音をした名前なのか分からなかった。
 あれ、どうして音にならないんだろう。
 あの名前は、今まで出会った人たちの中でもなかなか特別な物のはずだったのに……いやいや、待て。 何で、さも知り合いのような口ぶりになるの。
 名前だけは知っているけど、それはあたしがこの世界の物語を知っているからであって、彼女とは知り合いでも何でもないはず。 彼女の翼の感触なんて知ってるはずがない。

 あ、まただ。
 頭の中に全然知らない赤の他人の名前が、ずらっと出てくる。

(誰、この人たち)

 何、この名前。
 何でこんなに、名前が出るの。 誰の名前なの。
 いくらなんでも無理がある。
 あたしはまだ、こんなにたくさんの名前を持つ人たちと出会ったことがないはず。



”――――ううん、知ってるわ”



 あたしの否定を柔らかく肯定する声が、すぐ傍から聞こえる。

 今までに何度も聞いたことがある声だ。
 ひたすら眠りを誘う声とは別に、いつも導き、助けてくれた声。
 それが一体誰のものなのか今も分からないけど、あたしは囁かれる肯定に首を振って否定した。
 だってこんなに大量にある名前の人たちとお知り合いになった覚えがないもの。 おかしいよ。 どれだけ人脈広いの。



”――――おかしくないわよ”



 いやいやおかしいって。
 やはり否定すると、声の主があたしを笑ったのが分かる。

 む、何がおかしいの。
 そりゃ人様の名前や顔を忘れるのは失礼だと思うけど、だって本当に覚えがないもの。
 レオンやエイナって誰よ。
 他にもいっぱい、変わった名前。 機械の番号みたいな名前とか、神様的な名前とか、変な響きの名前とか、そんなのばっかり。 すごいファンタジー色。 小説に出てくる登場人物の名前みたい。 それほどまでに日本人めいた名前なんて本当に少なくて……。


(あれ、?)


 おか、しい。

 おかしい。

 まるで、こっち側の世界に住んでたみたい―――。






”――――全部、大切な名前よ”






 思考がストップしたあたしのすぐ傍で響く声が、子守唄のように言葉を紡ぐ。

 まるで懐かしむよう。
 穏やかな笑みを浮かべて笑うように、声にやさしい音を織り交ぜて囁く。








”――――全部、あたし達が出会った<命>の名前だよ”













第78夜 -5-










 ザァァァァ―――…。


 ―――――雨の、音。
 この音に包まれた世界は、夜とは違う静けさを世界にもたらしてくれる。
 いついかなる時も。 嬉しい時も悩める時も、親しい人間、見知らぬ人間の死を目前にした時でさえも、空にあるものは何一つ変わらず存在していた。 こちらの喜びも哀しみも苦しみも、知ったことではないと言わんばかり。


 ザァァァァ―――…。


 勢い衰えることなく降りしきる雨は、窓辺に佇む男の鼓膜にやさしく触れた。

 窓硝子を滑り落ちていく雫。
 それに逆らうように視線を上げると、ファナン周辺の空はいまだ厚い雲で覆い隠されているのが見える。 住民や旅人たちが手近な家や宿に駆け込んだその後も変わらず降り続けており、雲の重みや風の勢いを見る限りまだ当分は晴れそうにもない。
 ……まるで、自分の心を表しているようだ。
 絶え間なく窓硝子を濡らす様をじっと見つめる黒瞳はわずかな憂鬱げな光を灯し、濡れた髪を掻き上げて彼はため息を吐いた。

「まいったな…」

 黒瞳の主――レイドの唇からもう一度、ため息がこぼれた。

 止まない雨が恨めしい。
 身内が危険に晒されることを知らせるためサイジェントを旅立ち、聖王国領域貿易港ファナンにやってきたのはいいものの、彼らがなかなか見つからないうえこうして足止めまでされてしまって、焦る気持ちが膨らんでいくばかりだ。

 彼らに、危険が迫っている。
 なのにそれを伝えられないなんて、なんともどかしい……。


「「―――
はっっっくしょん!」」


 突如、盛大なくしゃみがレイドの背後から届く。
 あまりの大きさに何事かと振り向くと、がたがたと音をたてながら震える二人の少年の姿があって―――レイドの精悍な面に苦笑が滲んだ。

「二人とも大丈夫か? これで体を拭きなさい」
「うへ〜…しっかし見事にやられちまったなぁ」

 タオルを受け取るや否や、ガシガシと髪を拭きながら堪らず声をあげたのはジンガだ。
 ジャケットを絞り水気を払っているガゼルも、窓を打ち付ける雨を見る目はうんざりしていた……頭の天辺から足のつま先までずぶ濡れた彼らの姿はまさしく、小さな濡れネズミのようで。
 込み上げてくる笑いをレイドは目を逸らすことでどうにか堪える。(年頃の彼らに小さいなんて言うと烈火のごとく怒り出すので口が裂けてもいえない)

「にしてもよォ、酷ェ雨だよな」
「そうだな。 宿の主人の話だとこの時季にここまで強い雨は滅多に降らないらしいが…」

 ガゼルの呟きに、レイドは再び窓の向こうに目をやった。
 冬を間近に迎えているだけに冬至独特の肌寒さは濡れた体にかなり堪えた。 こうして手近に、しかも手ごろの値段の宿を見つけることが出来たのは幸運だとでも呼びたいくらいだ。

「ナツミのアネキの言葉なら、らっきー! ってやつだな!」

 ジンガはにししと楽しそうに笑うと、頭にタオルを被ったまま窓辺へバタバタと駆けていった。

(まったく、彼だけは何が起きても変わらないな)

 彼を見ていると、思い詰めるばかりの心が少し軽くなる。
 しかしそんな彼とは対照的な、ガゼルが気になった。
 雫に濡れる窓をどこか寂しそうな目で眺めながら、彼は小さな呟きをこぼす。


「…こんな雨じゃ、風邪ひいちまうよなぁ…」


 それが誰に向けられているのか分かって、レイドもまた表情を曇らせた。
 別れて間もない召喚獣の少女―――ユエル。
 頼れる人間がいないこの街で、この雨を、彼女はどうしのいでいるのだろうか。

「…とにかく、これだけ酷ければ我々も動きようがない。 彼女もどこかで雨宿りくらいはしているはずだろう」

 口ではそう言うものの、そうであればいいと願うばかりだ。
 レイドの腕に牙をたてた時のあの目は、怯えと、恐怖と、理不尽に対する怒りが見えた。
 それだけで、彼女が今までどのように生きてきたか。 どのような気持ちでこの世界で過ごしてきたかが多少なりとも分かってしまう。 思い知らされる。

 それはガゼルも感じ取ったはずだ。
 だからこそ、ユエルの事を気にかける。 自分の事のように。

(…ミニスのサモナイト石…ワイバーンの緑石を持っていたことも気になる。 いずれにせよ、彼女とはもう一度会ったほうがいいかもしれないな…)

「――――ま、ずっと気にしててもしょうがねえしな!
 下の食堂でハヤトたち見たやつがいねーか聞いてくるわ」

 レイドの気遣わしい眼差しに気がついて、ガゼルはぎこちない笑顔で笑った。
 ハヤトたちをお人好し呼ばわりする割には自分のお人好しぶりにまるで気づかないガゼルに、彼らのやり取りを眺めていたジンガは肩を竦めた。
 口ではああ言っているものの、それでも断ち切れていないのが見え見えだ。

(あーあ、無理しちゃって)

 湿った赤い髪をよけて、ジンガの青い瞳が鈍色の空を見上げる。
 空はどんなに強い風が吹いても容易には動くことがないほど重々しく、黒く分厚い雲は雷をも招きそうだ。 垂直に落ちてくる雫はファナン全域の空間を隙間なく埋めており、その勢いはもう一度外に出るものなら肌に痛みさえも与えるだろう。


「こっちはこっちでホント、全然止みそうにねえしー…――お?」


 無意識に、自分の喉から声が上がった。
 次にはごしごしと入念に目を拭ってから、額当てのない額を窓硝子にくっつけ、ジンガは窓にべったりと張り付く。 まるで、小さな子供が外の世界の好奇心を持ったような行動だ。
 彼の奇妙な行動にレイドが「どうした?」と声をかけるも、ジンガは食い入るように空を見上げるばかりで。


「ジンガ、どうしたんだよ」

「なあなあ二人とも! 天使がいるぜ!」


 ―――は?


 ガゼルとレイドの目が点になった。

 しかしジンガは興奮したように「すっげぇー! 強そー!」とますます窓に張り付いて、<天使>とやらを見つけて無邪気にはしゃいでいる。
 その様子に、ガゼルは胡散臭いものを見るような目に変えて顔を歪めた。 とても疑わしいと言わんばかりだ。

「天使だァ? 」
「あそこあそこ! ほら、見てみろって! あ〜お使いかなんかかなあ〜戦ってくんねえかな〜」


 何を何寝ぼけたことを…ガゼルは心の底から呆れた。


 ―――天使とは、霊界サプレスに生きる存在だ。
 階級の低い天使や小精霊であればまだしも、ジンガ曰く「でっけぇ翼」となるとそれなりに位の高い天使になる。 だが、高位の天使は強い魔力を持つ召喚師がこの世界に招かない限り滅多にお目にかかれないものだ。

 招くだけでもかなりの魔力を消耗する。
 しかしそのぶん能力や知性は高く、有能だ。
 そんなモノをたかだか簡単なお使いのために魔力を消耗して呼びだす召喚師なんて聞いた事もないし、はぐれ召喚獣だったとしても、はぐれた天使なんてガゼルは今まで見たことがない。
 遥か昔や御伽噺では種族問わず様々な異界の住人がリィンバウムにいたとされているらしいが、所詮は昔話で、御伽噺なのだ。 こんな土砂降りの雨の中、大きな翼の天使が飛んでいるなどと何かの間違いだろう。 よくわからないが、鳥が木々に止まって雨を避けるように、天使も羽が濡れて飛べないんじゃないか。

 ガゼルは大きくため息を吐いて、ジンガの顔の横から窓を覗き込む。


「だいたい、こんなドシャ降りの中に天使なんかがいるわけねーだ、ろ…」


 彼の言葉が、止まった。
 口をあんぐりと開いたまま空を見上げている。 顎が落ちそうだ。

(…まさか。 本当に?)

 レイドも彼らの頭上から、窓の向こうの世界を見上げた。
 まだしばらく太陽を拝むことが出来ないであろう、暗雲が立ち込める世界は雨雲に埋もれて夜のように暗い。



 だが、彼らが見上げるその先。




 一条の光の矢が、暗雲を切り裂くように駆け抜けた。














 ――――それを見ていたのは、彼らだけではなかった。




「あれは…」

 今にも掻き消えてしまいそうな呟きが、雨に濡れた唇からこぼれた。
 街中のいたるところざあざあと音をたてて降り注いだまま、風の声ばかりが強くなる……まるで、とてつもない何かに脅えて、世界が悲鳴をあげているようだ。
 ああそれにしても―――吹き荒れる雨の粒のせいで、顔面が痛い。
 目も開けていられない。
 けれどそれでも己の目が見つけた物から逸らす事も出来ず、トウヤは雨の中でも響く清らかな羽音を聴きながら、今この瞬間で何よりも眩しいそれを目で追った。

 バサァッ…!

 聴覚は、雨音よりも強く響く羽ばたきを焼付けて。
 暗雲の中で輝く、一条の矢の如く飛来する光に思考ごと全てを奪われた。
 光。 なんて眩しい。 それはサプレスを示す紫色(しいろ)の粒子を纏い、鮮烈な白光に包まれた大きな白翼だ。 羽ばたきに零れ落ちる羽根は空をくるりと踊った瞬間に解けて消え、見ている者に幻覚かと思わせるほどの儚さがある……もしかしたら、今見ているこれは幻覚なのだろうか。

 しかしそれに比べ、その手に固く握り締められた大剣は何と不似合いなことだろう。
 仄かな輝きを放つ黒曜石に似た、トウヤの瞳がその姿を捉え呟きをこぼす―――。


「あれは、天使エルエル…?」


 上空を飛来するモノ。
 トウヤの世界では偶像の産物でしかなかった”ソレ”は、幻覚でも白昼夢でもなかった。
 強く打ち付ける雨を目に見えぬ不可視の力で弾き返し、腰元から伸びる一対の翼を力強く羽ばたかせて薄暗い世界を閃光のごとく飛翔するその存在の名称は紛れもなく、”天使”だ。
 翼と同色の髪から覗く端整な横顔は美しく、澄んだ碧眼はただ真っ直ぐにファナンの巨大な水道橋を目指している……そこは、バノッサがの気配を察知した場所だった。

 しかし何故、こんなところに天使が。
 そんな疑問が胸に浮かぶも、それはソルの言葉で瓦解する。


「トウヤ、あいつの傍にがいる」


 絶え間なく降り続く雨の空に目を凝らして、ソルが静かに呟いた。

が召喚したみたいだな」

 彼の言葉に誘われるように、トウヤの瞳が天使を追った。
 悪鬼を払い打ち砕く大剣を握る手とは、逆の腕―――その腕に抱きかかえられたの姿を視認すると、雨に打たれる全身の肌がぞくりと粟立った。
 貴族のように絹を纏うのでもなく、召喚師独特のローブを羽織ることもなく一般市民と何ら変わらないどこにでもいる普通の少女のはずなのに、天使と共に暗雲の空を駆け抜ける様はどこか神がかり的なものを感じて、知らず知らず、トウヤは音をたてて唾を飲み込んだ。

(…、?)

 天使の加護に守られているからか、彼女も雨に晒されておらず平然していた。
 早い速度で駆け抜けるため、遠目からはその表情はうかがえない。
 けれども、その腕に巻きついた白い包帯に目を瞠る。

(何で、そんなに傷だらけなんだ)

 トウヤはファナンに到着したばかりで、マグナたちに起こった出来事はまだ聞いてはいない。
 だがの、傷だらけのあの身体はどうしたというのだろう。
 あちこちに包帯が巻かれ、それがほとんど解けかけて、白い帯が風に煽られてひらひらと踊っている。

 一体、マグナたちに…彼女に何があったというんだろうか。
 そして彼女はどうして、あんなにも強く濃厚な魔力を纏っているのだ―――。






(…、君は)




           ザワザワ。




(何者なんだ―――?)




           
ザワザワ。




 幾度となく、へと投げた問い。
 その答えは返ってくるはずもないのに、トウヤの体の奥底で、求めるように、何かが騒ぎ出す。


 奥底深くあるモノが、今の<>を見て騒ぎ出す。


「っ…」
「トウヤ!?」

 ざわめきの次は、軽い目眩。
 たかが目眩。
 しかし周囲の全てがひっくり返されたような感覚に、吐き気がする。

「…平気、だよ」

 この感覚は何だ。
 歓喜か。 嫌悪か。 興奮か。 憎悪か。
 熱に浮かされたように思考が霞むも降り注ぐ雨のおかげで意識は正常のままだが、言いようもない感情に感覚の全てを狂わされて、目が回る。 ぐるぐると。 目が回る。けれど耳は周囲の音をしっかりと捉えている。 音。 音――いやこれは、”声”にも取れる。 ”声”。 誰の。 周囲に人気はないのに、何故こんなにもたくさんの”声”が。



(ただの声じゃない―――歌、だ)



 歌。


 それは自分の中から。
 周りからも、聴こえる。
 ありとあらゆるものの声が重なって、それは歌と化し、響いている。


(……僕の周りの、あらゆるもの)


 空。
 海。
 空気。
 雨。
 大地。
 命。
 トウヤの周囲にある全ての物……<リィンバウム>。




(これは、世界の)




(<世界の意志エルゴ>の、歌声なのだろうか―――――)













 

――――――アア、対等ナル我ガ<友>ヨ。 ヨウヤク出会エタ――――――













「―――オイ、呑まれてんじゃねえぞ」
「!」

 無遠慮に割り込んできた声に、トウヤは我に返った。

 その途端に歌が消えた。 声も消えた。
 世界は雨と風の音に満ちた空間を取り戻す――――現実に引き戻されて、くらくらとする頭を抱えながら隣に目をやると、すぐ傍に、鋭い眼差しで空を見上げるバノッサが立っていた。
 白髪に雫を滴らせ全身ずぶ濡れになりながら、雨の雫で曇る視界に構わずに天使の光の行く先を追い続けている。

 彼から声をかけてくるなんて珍しい。
 いやそれよりも、呑まれるな、とはどういうことだろうか……。

「あの女の力に当てられんな」
「…?」
「それに、ギャアギャア騒いでんのは<意志>じゃねえ。 <意志>のカスだ。
 俺様や手前の中にあるモンもカスみてーなもんだからな、カス同士で影響されやすいんだろ」

 カス? と首を傾げて、名残のようなものだと告げていることに気づく。

 なるほど。
 世界を構築するに必要な<世界の意志>の思念は世界中に散らばっていて、でもそれはエルゴ本体ではないからエルゴの”残りカス”で。
 トウヤもエルゴの力の一部だけを取り込んでいるのだから、本体ではないそれも”残りカス”ということか。 あまり上品な言い方ではないが、的を得ている。

 だがおかしい。
 たとえ残りカスとは言えど、トウヤの中にいるエルゴは確かにに反応している。
 どうしてエルゴが反応しているかは分からないが、それは確実なものだ――――だが何故、バノッサはその事が分かるのだ?
 バノッサの中にあるのはサプレスの魔王の力の名残であって、エルゴではないのだからあの”声”が聴こえるはずがないのでは…。

 物言いたげな視線に気づいたバノッサが、フンと鼻を鳴らしてトウヤを睨みつけた。
 血の色のように赤い瞳が、雨で霞む世界の中でも力強い光を浮かべている。

「俺は魔王に飲み込まれて死ぬはずだった。
 だがあの女のせいで戻ってきた際に、魔王やら何やらが混ざっててもおかしくはねえだろ」



 それこそあの女が持つ力の、残りカスとかがな。



「…なら、バノッサ達を助けたのはだと認めるんだな?」
「フン」

 その場にはいなかったはずの人間に助けられた、なんて。
 なんともおかしな話だ。 ソルの指摘にバノッサは毒吐いて話を打ち切ると、忌々しそうに空を睨め付けた。

 雨靄に包まれた水道橋の上空に、眩い光が見える。
 曇天の空にも眩しい輝きを放つ天使の光は遠目に霞むことなく浮かんでいて、白い翼を羽ばたかせながらそれはゆっくりと弧を描くと、やがてはファナンの端に位置する巨大な建造物……水道橋へと消えていく。
 ――――ファナンの水道橋。
 住民の話によると、ファナンのどこにいても目にすることの出来るその場所は、”海水から真水を作り出す”という特性を持つ魚型召喚獣ソレルクによって飲み水を作り出しているのだそうだ。 池や湖といった水源が近場にないファナンにとって、数箇所にある井戸と橋そのものが住民のライフラインと言っても過言ではないだろう。

 バノッサが最初に告げた通り、やはりは橋を目指していたようだ。
 だが彼女はそこに何の用が……?


は、本当に)


(―――人間なのだろうか)


 この世界に来て色々な事を体験したためか。
 トウヤの思考は当り前の物だと信じていた常識を越えて、物事を考えることが出来るようになっていた。
 この人間は、トウヤが思っている”人間”であるのだろうか?―――そんなことにもさえ、疑問を持つことだってできるようになった。
 人間であるならばそれでいい。 だが、ただの人間が戦い慣れしているバノッサを追い詰めるほどの実力を持つ召喚師を、あっけなく吹き飛ばすことが出来るであろうか。



「とにかく、橋に行こう。 を連れ戻さないと…」



「――――――なあガゼル、早くしろって!」



 トウヤが再び走り出そうとしたその時、少し先の道から聞き慣れた声が届いた。

 雨風にも負けない大きな声にトウヤとソルが目を丸くすれば(バノッサはとてつもなく嫌そうな顔になった)、見慣れた人物の姿が一軒の宿屋から飛び出してきた――――強い雨風に「うっわ、すっげー風強ぇー!」と声をあげながらもお祭りに参加したようなテンションで笑っている彼の赤い髪は、雨靄の中でも鮮やかだ。


「橋に行ってみよーぜ! ほら、消えちまったじゃんか!」

「こんな風ん中を平気で立ってるお前が怖ぇーよ!」

「だが放っておくわけにはいかないだろう。 あの天使、もしかしたらハヤトたちと何か関わりが…」


 ―――そこで、レイドの言葉が途切れた。
 雨風に掻き消された訳ではない。 彼の黒瞳が、全身ずぶ濡れのトウヤの姿を見つけたからだ。

「トウヤ?!」
「あ、アニキ発見ー!」
「うわ、本当に天使と関わりがあったのかよ…」



「やれやれ、ようやく会えたか…」



 ソルの溜息に、訳が分からないと首を傾げるガゼルだったが。
 彼らが<銀髪の吟遊詩人>にリプレたちが襲われたことをとうに知っているという事実を聞き。




 ”すげぇすれ違いじゃねえか…”と、がっくりと肩を落としたのは言うまでもない。

















 ああ、煩い声。


 どこからでも響く耳障りな歓びの歌に<>は顔をしかめた。
 世界中に散らばっている<世界の意志>の欠片たちが、<>の魔力に呼応してリィンバウムの天候を揺らしている。

 雨の勢いは強くなり、風は我を忘れて暴れ狂っているようだ。
 ここまで歓迎されるのも悪い気はしないが、所詮は<世界の意志>の欠片。
 世界を構築するにあたってそれらは重要でもあるが、見方を変えれば<世界の意志>のように自我を持たないただの”残りカス”だ。 <>の中にある魔力に<世界の意志>と同じものを感じ取って喜んでいるだけに違いない。



 馬鹿馬鹿しい。


 ”力”だけの存在である自分に、”対等なる友”などという概念などないというのに。



「――――見ぃつけた」

 呟きに、彼女と同じ物を視認した天使の澄んだ青い瞳が敵意を持って細められる。

 水道橋の上空で音をたてて羽ばたくのは一対の白翼。
 天使は<>を片腕に抱えたまま一度空中で静止すると、<>を抱えた腕とは逆―――悪鬼を打ち滅ぼす大剣を掲げ、視界に映した目的の存在へと躊躇なく振り下ろした。

 純粋な殺気を込めて振り下ろされた、光刃。
 剣に蓄えられた力は灼熱を帯びた裁きの雷(いかずち)となりて目標に襲いかかる。


 ガゴォォオオォ――――ォン…ッ!!


 雨雷よりも眩い閃光は、激しい轟音と空気の振動を伴った。
 目標とされた男が立っていた場所を中心に、地鳴りを轟かせ地面を穿つように抉り取る。
 ファナンの石床の道は強い力に抉り取られて瞬時に瓦礫と化し、光熱に爛れるように黒煙を上げて、道として使われていたその場所は跡形もなく地面をむき出しにして崩壊していった。

 煽るように吹き上げる爆風に銀色の髪が踊り狂う。
 蹴って跳んだ衝撃を足裏で踏み殺し、男は―――レイムは、左頬が焼かれた痕を残す美貌を天に向けた。
 アメジストを水に溶かした紫瞳が見やる先は、雨の中でさえも眩く浮かび上がる白翼。
 見上げる彼の両目が仇敵の存在を不愉快に思う光を瞳に宿すも、宙に浮かぶ天使の傍らの屋根にぽつりと佇むもう一つの影を見つけ、苦々しい笑みに切り替わる。


「追いかけてくるまで気に入られるとは、光栄ですねぇ」

「あんたには、あたしのモノに手を出された借りがあるからね…体慣らしがてらに少し遊んでやろうかと思って」


 は――の姿を持った<ソレ>はニタリと哂った。
 の顔なのに、それはレイムの知る物とはまるで違っていた。
 あまりにも禍々しく、醜悪で、なんら温かみもない――まるで、と<彼女>を穢されたような気がして美貌を渋面に曇らせる。


「その顔で、笑わないで欲しいですね」


 エルエルは<>の腰を抱き、彼女を連れて屋根から飛び降りた。

 雨に濡れない白翼が空を踊ると同時に、白い羽根が宙に散る。
 満足そうな笑みを浮かべたまま地に降り立った<>は、レイムの爛れた左頬を見て微笑んだ――――普段のにはない妖艶な空気と歪んだ弧を描く唇に背筋がぞくりと逆立つのを自覚するが、表情には出さず、鼻で笑うことで向けられた妖艶な空気を振り払うレイムの紫瞳は凍てついたように冷ややかになる。

 全てを呑み込む深淵のごとく暗い光を浮かべ、マグナたちにはまだ見せた事がないレイムの本性を露にする。

「たかが”力”の分際で、もうその器の主人気取りですか? 不快ですね」
「主人気取り、ではないわ。 あたしが””よ―――そう、あたしが””になる」

 <>はエルエルに向かって片腕を差し出した。
 誘惑されたように天使が膝をついて差し出された片腕を恭しく手に取り、その手の甲に額を押し当てる―――すると、天使が纏う白光は蜃気楼のごとくゆらりと揺らめきを見せて、神々しい光に包まれた天使の姿はゆっくりと<>の中に溶けていく。

 天使の体が解けて無くなる。
 気配も消える。 だが<>の体にエルエルと同じ光が浮かび上がるのを見て取ると、レイムは整った片眉を吊り上げた。
 彼女の姿を見るだけで生理的な嫌悪を覚えるこの感覚は紛れもなく―――。

「エルエルを、憑依させましたね?」
「こっちのほうが絵になるじゃない」

 言葉を終えた後、エルエルが手にしていた大剣が<>の手中に現れた。

 彼女の体格とは不釣合いな剣。
 は”剣”という武器を振り回したことがないだろうに、エルエルを憑依する事により剣は<>にしっくりと馴染んでいる。 高位な憑依術だ。 こんな憑依も出来るだなんて、彼女もまた、誓約者と同じく召喚した対象の力を誓約以上を引き出せるのだろうかと、その魔力の強さに内心舌を巻いた。


「天使と悪魔だなんて―――まるで、昔の御伽噺みたいで」


 <>は剣の柄を右手に握り締めると、その足裏は雨に濡れた地面を蹴り上げた。

「!」

 レイムの表情に僅かな驚愕が混じる。
 まさか、彼女自ら向かってくるとは――咄嗟に腰の帯に佩いた剣を抜き、躊躇なく振り下ろされた白刃を受け止めた。
 確実に命を削ぎ落とすであろう白刃は、甲高い悲鳴を上げて重なる。
 なんて耳障りな悲鳴だ。 だがそれを耳にした<>がますます笑みを深めて、昂ぶりを示すように肩を揺らし喉奥から哂い声を迸らせた。

「あはっ、あははっ――!」

 <>の昂揚に応えたのか、エルエルの力が膨れ上がるように増幅した。
 受け止めていた刃に、ずしん、と鈍い重みが増す。
 ぎちぎちと音をたてて互角に鬩ぎ合うのはほんのわずかで、エルエルの能力を得て鋭く操り出される<>の剣撃にレイムの体は水道橋の壁へと押しやられていく……ズル、ズル、と音をたてて後退する靴底は追い詰められている事を何よりも物語っていた。

「っく…!」
「ああ気持ちいい! すっごく気持ちいい! 自由って、こんなにも素晴らしいのね!!」

 剣を振るう<>の言葉の一つ一つが、魔力の塊となってレイムに襲い掛かる。
 爛々と狂気に輝く彼女の瞳は、既に理性が薄い――ふと、彼女の腕の外れかけた包帯に目をとめると、その美貌はどこか痛ましげに曇った。

「その体に無理はさせないで頂きたいものですね、貴重な器なのですから…っ!」

 包帯が外れかけた左腕。
 打ち身痕と小さな傷を残した体。
 あれは、トライドラで負ったものなのだろうか――傷をつけるなと命令をしておいたはずなのだが、後でキュラーを問い詰める必要がありそうだ――紫色の瞳が、凍てつくような怒気を孕んで冷ややかに細められる。

(アレ自身は痛みを感じないのか…このままでは、あの器が破損してしま―――っ?!)

 別事に意識を逸らしたせいか。
 <>から溢れ出す、不可視の衝撃波となって放たれる魔力が真っ向からぶつかるそれを避けるのが遅れてしまった。 鞭で頬を叩くよりも鋭い威力で、均衡を保ち対峙していたレイムの体が水道橋の支柱の壁に叩きつけられる…視界が一瞬、赤に染まった。

「ごほっ…」

 喉奥から高温の熱が込み上げて、血液がごぽりと音をたてて口の端から零れ落ちていった―――それは貴重な、血識だ。
 けれど目の前で高らかに嘲笑う<あの存在>の前では、普通の人間と同じただの血でしかない。

(…これほどのものとは…)

 血に刻まれた数多の知識など、<あの存在>の前ではまったくの無意味だ。
 召喚兵器ゲイルを用いても、敵うかどうかも予測がつかない…それを考えて、紫瞳と彼の唇が歓喜の色に染め上がる。



(―――だが、素晴らしい)




 召喚兵器と<あの存在>を手に入れれば、なんと素晴らしいことだろう。




「ますます貴女が欲しくなりましたよ―――魔臣、ガルマザリア!」

 血を吐きながら叫んだ真名に、サモナイト石が呼応した。
 次の瞬間、レイムの頭上に現れたのは禍々しい瘴気を纏う美しい女だ。
 妖艶な唇に薄い弧を描き、性欲をそそるかのように誘蟲的な匂いを放ちながらその腰には一対の黒翼が揺らめいている。
 瞳に宿るは、<>の中にいる宿敵の存在を感じ取って掻き立てられた闘争本能の光だ。
 獣のように牙を剥き、地の底から響いてくる風の声と似た唸り声を上げながら、手にした大剣で<>へと襲い掛かる。


「グルオオォオオォオオォォオオォォッ!!!!」

「―――、―――」


 猛襲する悪魔に、<>が何事かを呟いた。
 言葉としてでは聞き取れぬ発音。
 けれど確かな魔力が込められた短い詠唱だ。

 それはガルマザリアの元に届いたかと思いきや、悪魔の姿は一瞬にして掻き消えた――――送還、されたのだ。


「なるほど…これが、ビーニャの魔獣を無効化した送還術ですか」

 多くの召喚獣が身を焦がすほど望んだ故郷への帰還を、彼女はあっさりと叶えてしまった。
 <世界の意志>の力を借りて結ばれる誓約の無効化をこうも簡単にやってのけてしまうとなれば、もはや術者の意志など無意味だ。 あってないようなものだ。 そのこと自体が有り得ないというのに、彼女は息をする事と同じくらい平然とやってのけてしまった。

 自身の口内に溢れる血の臭いに甘さを感じながら、レイムは胸中に呟いた。

(何者ですか、貴女たちは―――)



 だが真に問いたいのは、”彼女たちが何者であるか”ではない。

 ”彼女たちはどのような存在であるのか”…そう問いたい。

 長年追い続けても、それは未だに解決出来ていないのだ。



「貴女を手元に置いて、隅から隅まで…一度じっくり調べてみたいものですね」

 雨に濡れた銀色の髪が、すらりとした体躯が再び紫色の粒子を纏い始める。
 過去に楽園と謳われた世界に再度招かれた者は、禍々しい呪怨の瘴気を帯びた武具たちだ。
 それらは幾万の命の血を浴びたであろう切っ先を<>向けると、<>は声をあげて笑い出した。

「あはははッ! っく、ふふ、まだ抵抗するの?」
「ええ、私にはやり遂げなければならないことがいくつもあるので…殺されるのも送還されるのも御遠慮願いますよ」

 そう、最初に一撃を食らったが、送還よりはだいぶマシだ。
 一度送還されてしまうと、再びリィンバウムに舞い戻るには長い時間が必要となってしまう。
 人間にとって気の遠くなるような時間の経過をほんの瞬き程度にしか感じないサプレスでも、長いと感じるほどの――――長い時間。
 …まったく、様々な恩恵を授かった面倒な世界だとつくづく思う。



「まあ、最初にあんたを送還したって良かったんだけどさぁ」

 昂ぶりを一呼吸することで落ち着かせて、<>は思案する素振りを見せる
 僅かに目が伏せられたそれは、どことなく眠気のようなものを帯びているようにもみえた。


「でも、見てみたくてさァ」

「見てみたい…?」


 何をだ。
 瞳で問うように、<>の狂気を孕んだ瞳を見つめた。


 <>は、薄っすらと目を細めてレイムに哂う。





「クレスメントの一族の末裔に、あんたが倒されるのが本当なのかってね」





 ―――― …一体、何の冗談だ。





 これこそ笑い飛ばしてやろうと思ったが、<>の表情は歪な笑みのままだった。
 何かの策があってレイムを陥れようとしている訳ではないのか。
 ただ、自分が知り得ている事実を話したまでだと言わんばかりに、驚愕に目を見開くレイムの反応を伺っている。





「…何、を」



「――――知略と奸計の悪魔王レイム・メルギトス。
 あんたは最後までニンゲンを舐めきって、最期はニンゲンに逆転されるのさ」





 言葉を切って、<>が剣を振り上げた。
 切迫する魔力に対抗し、鋭い殺意と禍々しい怨念を秘めたダークセイバーが<>に向かって襲い掛かるも、重なり合った<>の刃は数秒も持ちこたえることなく闇を砕いて、茫然と立ち尽くすレイムに襲いかかる。

「っく…!」

 咄嗟の後退で切っ先をかわすも、左頬は浅い傷を作り血を溢れさせた。
 背に触れた硬い壁の感触に逃げ場がないことを知らされる。
 このままでは追撃に身体を裂かれ、今度こそこの<憑代>が完全に破壊してしまう―――最悪の展開を脳裏に描いた、そのとき。


 カンカンカンカンッ!!


 突如、雨音を塗りつぶすようにけたたましい鐘の音が世界に響き渡った。
 
 <>はその音を耳にし、追撃を止めて音の方角へ目を細める。
 ざあざあと降りしきる雨は視界を曇らせる。
 だがかすかに届くざわめきと、街中に響く鐘の音が何を意味するのか理解出来たのか、ニヤリと不気味な笑みを形作った。

「もう少しで、大勢の人間がここに来るわね」
「…ふふ、貴女が大暴れするからですよ」

 警鐘のおかげで、一瞬にして漂白された思考が我に返る。
 そのことに内心密やかな安堵の息を吐きながら、レイムは水道橋を見上げた。

 空へと鳴り響く警鐘。
 確かに水道橋全体は健在だが、ファナンの住民を不安にさせるには充分だ。
 あれだけの轟音が響いていれば、住民が気づかないはずがない。
 繰り返された彼女の猛襲でファナンの道は石畳が剥がれ、あちらこちら地面が剥き出しになって橋の周囲は瓦礫と化してしまったが、それでも無傷だとは言い難い程度のダメージは加わっていることだろう。

 鳴り止まぬ警戒の鐘の音に、<>はけたけたと笑い声を上げる。



「構わないわ、何人来ようとも―――殺せばいい」



 酷く歪な笑みが、彼女を狂気に染め上げる。
 それは純粋なまでの憎悪と混ざり合って彩られ、紡ぐ言葉がただの言葉だけではないのだと告げていた。



「殺される前に殺してやるわ――――これ以上、殺されてたまるものか」



「―――それは、どういう意味だ」



 鳴り止まない警鐘。
 雨音と重なって響き渡る世界に、また新たに、青年の声が重なった。

 <>はゆっくりと、振り返る。
 同じくレイムも、ゆっくりとその声の主へと視線を動かす。
 雨靄にやや霞みがちだが、それでもこの近さであれば充分に姿を見分けられる……左頬に焼き痕と切り傷が刻まれても損なわれない美貌が、唇に笑みを形作った。



「こんにちは、誓約者リンカー



 謳うように紡がれた、名。
 雨の中でも充分によく通る甘い声に、トウヤたちは表情を引き締めた。










NEXT

うおおおこここここ今度こそ終了に…!もう何度目の叫び。
書きたいことが多すぎて終わらないんですけど…全部詰め込むってどうなの。
祭りはまだか。
何気にEXの話にもちょっと繋がっていたりします。


2008.6.10