(…また、ここに来ちゃったなぁ…) そんな世界にすっかり飽いたように、のん気な呟きがぽつりと落ちる。 呟きが唇から落ちたのか、頭の中で落ちたのか、胸の内に落ちたのか分からない。 けれどゆらゆらと揺らぐ水面のようにおぼつかない意識では、どこから落ちても同じだろう。 いや、ここでは何かをしていても、何を言っても同じなのだと今更ながらようやく気づいた。 ここにあたしの意思は、ない。 この中では、あたしの意思は反映されない。 抜け殻のような身体が暗闇の中にぽつんと残され、ぐたりと地面に伏せたまま、ただ、もどかしいまどろみだけを許可されている。 (いったい、何なの…) そんな問いかけを、何度繰り返しただろう。 わずかに開いた目が映すものは濃厚な闇ばかりで、飽きてしまった。 けれどこの暗闇が特殊だということを、手遅れになる前に気がつけたのだからまだマシか。 (ただの、真っ暗な空間かと思ってたけど…) 不思議な声を聞いたのも、この暗闇。 誰かの過去を見てしまうにも、原因不明の昏睡状態に陥って辿りつく先も、この暗闇。 この頃よく見るようになった意味深な夢を見る前にもここに行き着いてしまうのだから、この闇にこそ全ての原因があるのではないかとも考えるようになったのだ――ああけれど、それがどうしたというのだろう。 闇が特殊ならば、何故、特殊なのか。 何故、あたしがここに来てしまうのかとその辺りも考えなければいけない。 …考えなければ、ならないのに。 (……無理……ねむい……) 思考するよりも先に、あたしの意識は更なる眠りへ落ちていく。 瞼が落ちる。 意識も堕ちる。 自分の名前は。 誰か。 大切な人が、好きな人がいたのかと理解することすら、出来ない。 たった独りの世界で眠りつく耳に、囁きが落とされる。 ”――この身体、あたしにちょうだい――” 第78夜 -2- はっきり言ってに関わるとロクなことがないのだ。 バノッサの中で、それだけは確かなことだと胸を張っていえるだろう。 と、いうよりも、ハヤト共々内輪もめに巻き込まれ、西へ東へ奔走する始末となっては嫌でも理解せざるを得ないとでもいうべきか。 とにかく、彼女に出会ってから振り回されてばかりなのだとここ最近になってようやく気づく。 こちらの意思はお構いなしで、とことん振り回される。 今もそう。 バノッサを振り回してくれる少女は、得体の知れぬ吟遊詩人の腕に囚われたまま彼の視界に入り込んでいるのだ。 硬く閉ざされた瞼。 それは眠っているのか気を失っているのか、見ただけではよくわからない。 だがその傍ら、ネスティがダークブリンガーと向かい合い、突然の乱入者であるバノッサの出現に驚いたように目を見開いていることから、再びファナンに舞い降りた自分が何事かの真っ最中に踏み込んだのだろうということは理解出来た。 ――得体の知れぬ吟遊詩人。 ――腕に抱かれて動かぬ女。 ――眼鏡。 目の前のそれらに(最後の眼鏡はどうでも良かったが)、バノッサの本能までもが”確実に面倒な事になっているぞ”とうるさいほど訴えているというのに、背後にいるレシィが首を傾げて不思議がっているのがどこか間抜けだった。 入室禁止とされていたの部屋。 その部屋の中にいるとレイムの組み合わせを、たいそう不思議がっていたレシィだが。 「どうしてここにレイムさんが……あ、ネスティさん!」 大きな瞳がきょとんとネスティを認めると、禍々しい凶器に狙われたまま動きを封じられた仲間の元へ駆け出そうとする。 ――何と考えなしの行動か。 自分的には放っておいても構わないが、目の前で死なせるとここに住む住人からの非難轟々は間違いないだろう。 そんな展開になることだけは御免被る。 あしらうのも手間で面倒臭いのだ。 ”クソ羊が”と舌を打って赤い目が追う。 駆け寄るレシィに禍々しい武器が狙いを定め、引き裂こうとゆらりと蠢き始める――それよりも早く、バノッサはふわふわとした柔らかな頭をガシィッ!と鷲掴んで引き止めた。 そのままぐっと握り潰されんばかりの握力に”ひゃぁぁぁぁっ”と悲鳴をあげ、メイトルパの亜人特有の尻尾の毛を逆立てて驚愕を露にする。 「動くな。 眼鏡の代わりにあの槍で羊の串刺しにされてえのか手前は」 「ーーーー!!!(ぶんぶんぶんぶんっ)」 「分かったら後ろに引っ込んでろ」 「−−−−!!!!(こくこくこくこくっ) それは保護というより、脅迫に近い。 しかし彼なりに<飛び出すと危険>ということを理解したのか、また握り潰されかけてはたまらない、と痛む頭を抱えながらバノッサの背中に引っ込む。 後ろに下がったレシィを視界の隅で確認し、バノッサは再び、レイムを見据えた。 銀の髪の吟遊詩人は寝台に優雅に腰掛けたままを抱え込み、二人の会話を愉快そうに眺めていた……初めて目にした時から思っていたが、やはり、この男の余裕さが気に食わない。 奥底が見えぬ紫瞳を、血色の瞳が容赦なく射抜く。 「何笑ってやがる。 …カノンが世話になった野郎は手前かって聞いてんだ、答えろ」 苛立たし気に問う声は険しい。 発せられた声は確かな怒りを帯びており、獣の低い呻き声にも似ている。 ファナンからサイジェント、サイジェントからファナンという空路を休む間もなく飛び続けたせいもあるのだろうが、再びファナンに降り立つ理由になった出来事……カノンが襲われたという、その話が根本的な彼の怒りの出所なのだろう。 (…くだらねえ) 何だかんだで弟を心配しているらしい自分に気づいて、胸中で毒づく。 それは紛れもなく<弟を心配する兄>の姿だ。 他の人間ならばたいそう微笑ましいものなのだろうが、その図に当てはめられるのはバノッサ自身……違和感の塊この上ない。(特に誓約者組やフラットのガゼルやジンガあたりが、笑い転げそうだ) (本当に、くだらねえ) 吐き捨てるように呟く。 弟の為に怒りを覚えるなど、過去の自分にあっただろうか。 ――なかった、はずだったのだ。 あの背中を見るまでは。 ――それは、魔王の闇に取り込まれる直前の話。 バノッサは赤と黒に点滅する視界の中にいた。 視界の端で禍々しく輝く宝玉が転がっているが、どうでも良かった。 それどころではなかった。 胸の奥、臓物を焦がすほど這い回る憎悪に唸り声を上げ、自分が自分でなくなっていく感覚への恐怖と憎悪に息を荒げている。 心も体も、憎悪にまみれていく。 全てに破壊をと、憎悪にまみれていく。 そんなバノッサを嘲笑う男…召喚師・オルドレイク。 「もはや用済みだ」と愉快そうに言い放ち、身を焦がす憎悪に項垂れるバノッサの前に立っていた。 その時に、見た。 ”――バノッサさん!!” 庇うように広げられた両手。 華奢な身体で盾となろうとした――弟の、小さな背中。 それを目にした時、どうしようもない後悔ばかりが沸き立って仕方がなかった―――。 「…―――まあ、答えなくても別にいいけどな」 思考を現実に引き返す。 腰のベルトに下げられた剣が、獣めいた酷薄な笑みが唇に浮かぶと共に引き抜かれた。 冷ややかな輝きを帯び、緩やかな曲線を描いた曲刀。 それは彼が地獄を生き抜いていくためには欠かせなかった”力”の一部だ。 手の平に馴染む柄の感触を握り締め、ヒュンッと軽い音をたてて空気を切り払う。 ――聞き慣れた、音。 それは胸のうちの不愉快な感情を沈め、酷く冷静な思考を取り戻してくれる。 「一応、兄貴として礼をしに来てやった――――というわけで、手前を潰す。 俺の物に手を出した奴は片っ端から潰していくことに決めてんだよ」 二度と手が出せねえようにな。と呟いて、切っ先をレイムに向けた。 ――弟共々、命拾いをしたせいか。 それとも憎しみも怒りも全て奪われて、曇っていたものが晴れたせいか。 今まで見えなかったものがよく見えるようになってしまった。 カノンが嬉しそうに笑う顔も、カノンがバノッサを心から慕っているのだということも理解出来るようになってしまって、時々それが酷くむず痒くて堪らないが、こんな自分でも守ろうとしてくれたあの背中を守れなかったことだけは事実で、それを激しく後悔したことも事実。 人間、一度死にかければ変わると言うが、魔王召喚の際に死ぬ寸前だったバノッサも例外ではなかったようだ…今度こそ弟への気持ちをはっきりと自覚をしてしまうと、バノッサに渋面が浮かび上がる。 この考えは、あまりにも自分らしくない。 どうやら今日はさっさと片付けて寝てしまった方がいいようだ。 「その女を適当に置いて、こっちに来な。 今なら半殺しにしといてやる」 「…貴方に、出来ますかねぇ…?」 不穏な言葉と対照的に、そこで初めて、レイムは暢気(のんき)な返答する。 (なるほどな) 吟遊詩人の職を持っているだけにその声は耳通りが良い。 彼が竪琴を持って歌ったならば、その美貌と歌声に誰もが一度は立ち止まることだろう。 しなやかに引き締まった体躯とその妖艶さを持ってすれば数多の女を惑わせることも可能に違いない。 しかし、顎に手をやり首を傾げるその仕草は馬鹿にしているようにしか見えない。 苛立ちに剣を硬く握り直し、蹴破った扉がぎいぎいと耳障りな音をたてて揺れているのを横目に見ながら、目の前の男を切り捨てようと無遠慮に足を踏み入れる。 「…っ!」 その途端に―――ぞくりと肌が粟立った。 部屋に満ちる、冷ややかな空気。 それが肌を舐めるように這い登ってきて、状況の不審に、バノッサの片眉が上がった。 気候のせいで冷ややかなのではない。 この、独特な力の気配は紛れもなく――。 「――――手前…、何者だ」 今度は応答がなかった。 だが、微笑だけが問いかけを肯定し、惹きこまれるほど美しい紫瞳の奥の光が揺らぐと、室内に漂うその冷ややかさはより濃密なものへと変化した。 ―――レイムの瞳と同色の光が現れる。 広がってゆくそれは、目視出来るほど濃密なサプレスの魔力の光粒だ。 すらりと伸びた痩身にまとわりつくように光を散らし、リィンバウムの物とは異なる異界の空気での部屋を満たしていく――まるで、サプレスをリィンバウムに呼び込んでいるかのようだ。 歌を紡ぐ薄い唇が、静かに言の葉を紡ぎだす。 「わざわざ遠方から出向いてくださった貴方には残念ですが…貴方のような人間に殺されるほど、堕ちたつもりはありません」 美しい吟遊詩人…いや、<召喚師>は霊界の力を纏いバノッサに笑む。 男が纏う魔力の独特な気配。 それをバノッサは知っていた。 これは、魔王に取り込まれた者だけが知ることができる気配。 ”悪魔の王”の力の気配にあまりに酷似している―――だが。 「ふざけろ。 こっちもやられたまま引き下がるつもりもねえよ」 魔王だろうが何だろうが、知ったことではない。 この場で出会った瞬間から互いへの理解の意思は互いに皆無だった。 相手が人間ではないのなら半殺しはやめだ。 人間であっても半殺しはやめだ。 悪魔だろうが人間だろうが見知らぬ赤の他人なら、殺すことにも躊躇などない。 片手に握った剣とは逆に、別に握り締められた紫のサモナイト石がバノッサの意思に応えるように紫の粒子を舞い躍らせ、白髪を揺らしながら霊界サプレスに属する輝きを引き締まった痩身に滲ませる。 獰猛な気配を漂わせた、力強いバノッサの魔力。 レイムはそれに優雅に微笑むと、を片腕に抱いたまま寝台から立ち上がった―――やはり、ぴくりとも動くことのない。 睫を震わせることなくぐったりとしているそれは、どこか異常めいたものをバノッサに感じさせる。 「おい、いい加減起きやがれ」 「…」 乱暴な呼びかけにも無音。 応えのないそれにわずかな苛立ちを覚えつつ、”巻き込んでも知らねえからな”と石の力をより強く引き出そうと魔力を注ぐ手に力を込めた。 次第に、石がまとう輝きが強くなる。 バノッサの魔力を蝕みながらサプレスからリィンバウムへと通じる扉を開かんと室内の空気を震わせ、束ねられた力を解放しようと光が溢れ出す―――。 その寸前、横から伸びた白い手がそれを阻んだ。 「…、何のつもりだ?」 横から伸びた白い手。 それは、男の手だった。 猛禽類を思わせる血色の瞳が危うい光を浮かべて、横槍を入れた妨害者を見やる。 「お前に、術を使わせるわけにはいかない」 妨害者はネスティだ。 レイムがダークブリンガーを送還して動けるようになったらしい…だが、バノッサの術を阻むというのはどういうことだ。 レンズの向こうに見える黒瞳が、レイムに術を向けることを許さないのだと言外に告げているのは何故だ。 ――その疑問は、実にシンプルな答えとして返って来る。 「その術ではにも当たる」 「んだよ、そんなことか…ありゃあ、あの女があそこにいるのが悪い」 「バノッサ!」 にべもない返答に、ネスティの眉間にシワが刻まれる。 レイムを狙えば彼に抱えられているに当たるのは自然だろう。 だが、バノッサも目の前の吟遊詩人を痛めつけてやらねば気がすまない理由があるのだ。 睨み合う形は次第に、互いを<敵>と見なすように変化していく。 だが。 「だ、だだだめですーーーーー!!」 ―――突如、バノッサの身体ががくんっと傾いた。 ネスティが驚きに目を瞠り、バノッサはあまりにも不恰好な姿を見せてしまったことへの苛立ちに舌打ち、目で殺さんばかりの殺気を醸しながら下を見やればレシィが必死にバノッサの片足にしがみついている。 「んだよ、離せ、羊っ」 「い、嫌です! な、な、何が起きてるのか僕には全然わからないですけど…」 眉が垂れ下がった顔が、このやり取りを愉快そうに眺めているレイムへと向けられる。 吟遊詩人が浮かべる微笑…それはマグナ達に向けられていたものと何も変わらないはずなのに、何故か、この騒ぎでも目を覚まさないと並ぶと、とても良くない予感を本能が察してしまう。 ――ごくりと、無意識に唾を飲み込む。 目の前にいるこの人は、本当に、この間会ったとき微笑んでくれた人なのだろうか…? 「…レイム、さん…あなたは、」 本能が察する予感に、言葉が詰まる。 無意識に震えを浮かべる手に気がついてそれを硬く握り締めるも、収まらない。 自分などではとても太刀打ち出来ない存在が目の前にいるのだと、思い知らされているよう。 趣味の悪い悪夢を見ているよう。 しかし美しく、優しい微笑みがレイムに浮かぶ。 「レシィくん、ありがとうございます」 出会うたびに向けられた、柔らかな微笑み。 を抱いていないしなやかな腕の手のひらが、ゆるりとバノッサ達へ向けられて。 「―――そのまま、抑えていてくださいね」 刹那。 レイムの瞳が爛と輝き、室内の空気がずくりと歪んだ。 部屋を破裂せんばかりにまで膨張した魔力はバノッサのものよりも鮮やかな紫光の粒子を放ち、それらを身体に纏うレイムの髪が紫光と共にざわりと舞い踊る。 それは、あまりに人間離れした魔力の解放。 つま先から頭の天辺まで駆け上がる悪寒の中に確かな警鐘を聴いたとき、バノッサは叫んでいた。 「避けろ!!!」 ――レイムの手から閃光が放たれる。 ネスティとレシィに体当たりをするように押し退けて、三人共々転ぶように地面に伏せた。 その頭上を鋭い光が通過し、バノッサに蹴破られぎいぎいと耳障りな音をたてて揺れていた扉に直撃―――。 ドォオオォォン……!! 「っく…!」 肌を焼く熱と、全てを薙ぎ払う風。 鼓膜を叩く爆音を織り交ぜた爆発が容赦なく、バノッサたちに襲いかかる。 爆発に壁が吹き飛ばされ、ぽかりと現れた空間の向こうに青空が広がった。 遠くに見える海の匂いが濃厚になるもそれどころではない。 爆風を伴った爆発の余韻はまだ続いている。 頬を叩くのは乱暴に吹き荒れる風。 すぐ隣に伏せたレシィの声すら遠く、風に煽られて吹き飛びそうになる身体を地面から離すまいと必死にしがみつき、噴上げる熱気に肺と肌を焼かれながらバノッサは顔を上げた。 ――じわじわと炎に包まれ始めるの部屋の中央で、レイムは穏やかに微笑んでいた。 バチっと爆ぜる炎の燐光の中で揺らめく銀色の髪は炎の赤を得て、銀とは違う色を浮かべている。 透き通るような白い肌も、今、この時ばかりは炎の赤を映し取って照らされていたが、微笑み浮かぶ美貌を飾る紫の双眸は赤に染まらず彼の本性を現すかのように昏い光を帯びている。 「次は、外しません――」 再び、ゆるりと手のひらが向けられる。 それは確かな照準と殺意を持って、バノッサたちを見据えていた。 「手前ッ!」 身体を跳ね起して剣を握り、術が放たれる前に切り伏せようとレイムへ切迫する。 しかしその刃が男の身体を貫くよりも先に、を片腕に抱いたまま、レイムが一歩間合いを詰めた。 唐突に接近に思わず身体がぐっと強張ったその瞬間、ひたりと、バノッサの胸に魔力を帯びた掌が押し当てられる。 ――触れる手の表面を通して心臓を焦がそうとでもしているのか。 脈打つそれを焼き尽くさんとする灼熱が凄絶な痛みを伴ってバノッサの胸の肌を焼き、痛覚を犯す激痛にくぐもった呻き声が食いしばった唇から零れ落ちた。 「死になさい」 生死を別つその瞬間に、美しい微笑みが崩れた。 吟遊詩人の唇は喜悦と歪(いびつ)さを含んだ弧を描き、免れぬ死の宣告が言葉となってバノッサの聴覚を撫でる。 ――なんと言う無様な姿だ。 この腕を振り下ろすだけでレイムの首が落ちるというのに、それを行うことも出来ないこの瞬間に、濃密な魔力でバノッサの肌を焼いていく。 自分の肉が焦げる、嫌な臭いがする。 痛みと嫌悪に顔を歪めたその次には、バノッサの胸に押し当てられた手が再び鮮烈な紫の光を帯びて閃光を放ち、その体躯を穿たんと光刃を召喚する――――。 「っ…?!」 穿たれる寸前、バノッサは息を呑んだ。 ――――が、目を覚ましていた。 (テメエ…!) 感情の読めない、冷ややかな瞳と視線が絡んだその後。 ゆるりと伸ばされた細い腕が、小さな手の平が、レイムの頬へぴたりと触れた。 その感触に驚いたのはを捕らえていたレイムだろう。 唐突に触れてきた他者の感触に気づいたその時には、頬に触れたの手から眩い白光が滲み、溢れ出す。 それは先ほどのレイムが放ったものと同じ、目視できるほど強い魔力――――。 「――――その人間はあたしのモノよ」 何が、起こったのだろう。 それを心の中で問いかけつつ理解できぬまま、レシィは目で見たものを映していた。 ――――”レイムの身体が吹っ飛んだ。” 床に転がったまま動くことの出来ないレシィが見て、理解できたものはだたそれだけだ。 の手から放たれた、耳を塞ぎたくなるほどの音をたてながら鮮烈な光に穿たれた体が壁を貫いて、隣室へと消えてしまった状況を詳しく理解するにはもっと時間がかかってしまったが。 全ては、一瞬。 なのに、思考だけが確実に置いていかれている。 「…ご主人さ、ま」 新しく生まれた炎の熱気が、幼い彼の頬を焼く。 潮の匂いに混じって空気と木を焦がす臭いに咳き込みながら、震える腕で身体を起こした。 部屋の物が燃えて発生する煙が酷い。 亜人であれば嗅覚も敏感だ。 ツンとした臭いに涙が浮かぶ大きな瞳が、煙に覆われた視界の中でとネスティとバノッサを探そうと立ち上がろうとする。 「え」 背中に重みを感じた。 レシィの身体に、ずしっと何かが覆いかぶさっている。 (い、いいいい一体、何が) それは、温かいものだ。 そしてレシィよりも大きいものだ…思考がパニックに染まりそうになるのをぐっと堪え、こわごわと首だけで振り返って見る――涙が引っ込んだ。 「…ね、ネスティさん!」 おもわず、悲鳴に近い声が出た。 ネスティがレシィの小さな身体に覆いかぶさっていたのだ――赤い外套に包まれた、線が細くも広い背中は灰と木屑を被って動かない。 こめかみから頬を流れる赤い血筋を見て幼い顔から血の気がさっと引いていった。 眼鏡の向こうにある瞼は硬く閉じられたままで、反応すらしない。 傷は頭にあるのだろう。 とにかく怪我の具合を診なければと、ネスティの身体の下からどうにか這い出そうとじたばたもがくも意識を失った人間の身体は異様に重く、身を起こすことは出来ても立ち上がることが出来ない。 「ね、ネスティさん、ネスティさんしっかりしてください!」 助けてくれたのだと、爆発から庇ってくれたのだと分かると涙が零れ落ちそうだった。 起き上がることも出来ない自分の非力さが悔しくてたまらない。 彼の意識だけでもどうにか呼び戻そうと名前を繰り返すも、顎から滴り落ちた血が床に小さな血溜まりを広げていくばかりだ…それと同じように、不吉な予感が小さな胸を覆っていく。 「ネスティさん、ネスティ、さ…ぅ、うぅ〜っ」 「――うるせえぞ、羊」 声が降ると同時、レシィの背中を覆っていたものがなくなった。 涙で濡れた目で見上げると、心臓の真上にある肌を焼かれたバノッサがネスティを退かしていた。 しなやかで逞しい胸の白い肌には焼印を押し当てられたように、痛ましいほど焼き爛れている。 空気が触れるだけでも痛むのか。 仰向けに寝かされたネスティの怪我を診る端整な横顔に、脂汗がじわりと浮かび上がっている――それは彼の傷も深いのだと、言葉よりも饒舌に物語っていた。 「ば、ば、バノッサ、さん」 「いちいち騒ぐな。 …手持ちがリプシーしかいねえが、ねえよりマシか」 懐から取り出したサモナイト石から光が零れる。 詠唱によってリィンバウムへと招かれた小さな精霊が具現化すると、驚くレシィをからかうようにくすくすと笑う精霊は、その身に纏う光をネスティの頭上にきらきらと散らし始めた。 それが酷く温かいと感じるのは、癒しの光でもあるからだろう。 キャッキャと楽しそうに頭上を飛び交う小さな精霊をぼんやりと眺めていると、バノッサが顔を上げて立ち上がる―――負傷しながらも炎に撒かれた室内を見渡す瞳は、鋭い。 「…あいつら、いなくなってやがる」 「え、じゃあ、ご主人様は…!」 「逃げた吟遊詩人を追って行ったか、それとも吹っ飛ばしただけ吹っ飛ばして逃げやがったか…分からねえがな」 壁が術に穿たれて、の部屋は空と海が広がる外界へ繋がっていた。 吹き込む風が潮を香りを運んでくる。 少し離れた場所に広がる街を血色の瞳で睨みつけながら、白髪とワインレッドの外套をなびかせて振り返った。 焼き爛れた肌が赤黒く変化し、空気に舐められる度に疼く痛みに血の気が引いているのか、死人を思わせるほど青白い顔になっている。 「他の奴らを呼んで来い。 俺はあいつらを追う」 「あ、で、でも」 「吟遊詩人もそうだが、今度こそあの女の化けの皮を剥いでやる――」 悔しげに、下唇を噛み締めるの苦い味が口内に広がった。 何も知らない顔をしていたくせに、あの時に見た目は全てを知る目だった。 全てを見透かし、哂っている目だ。 バノッサの奥底にあるものまでも、全て、あの目に無理矢理暴れるかと思った。 だが何よりも気に食わなかったのは――。 (…クソッ、やっぱり手前なのかよ) が放った時に見た、鮮烈な光には見覚えがある。 魔王の闇に取り込まれたバノッサを救った、魔王の闇を切り裂く光――あれと、同じだ。 以前、リューグの正気を取り戻した光はあまりにか弱く「この女ではないな」と思い込もうとしていたのに、あんなものを見せ付けられてしまっては否定のしようがない。 ――バノッサとカノンを救ったのは、なのか? (…よりによって、あの女かよ) そこまで理解しながらなおも断言しないのは、助けた恩人が「」であることを認めたくない意地だった。 「余計な借りを作りやがる…あの馬鹿女が」 「バノッサー! 無事かー?!」 慌しくばたばたと響く足音が聞こえ、バノッサの眉間にシワが寄る。 ハヤトとその仲間たちの声だ。 レイムやがいないこと、ネスティの怪我への状況説明を求められても面倒なので、バサリと外套を翻すととレイムが穿った穴から躊躇なく飛び降りる。 「ば、バノッサさん!? 怪我してるのに駄目ですよー!!」 背中にかかる声も知ったことかとバノッサは既に走り出していた。 レヴァティーンの召喚するという手もあるが、こんな事でいちいち呼んでいては無駄に魔力を食われ、次の戦いに術を使うことが出来なくなる。 だが、走ってでも間に合うと確信している。 あれほど余裕を見せていたレイムの姿がないのだ。 その事からおそらく、レイムもの術により一度退散せねばならぬ傷を負っているのだろう――。 (俺から見ても、アレは強烈だって思ったからな…) 子供が戯れるように、ひたりと触れたの手。 それはバノッサのものよりも小さく、けれどその身に宿る魔力はバノッサのもののように半端なものではない。 レイムがあっけなく吹っ飛ばされたことには爽快だったが、アレを敵に回すのはやめたほうがいいと本能が告げていた。 だが。 ”その人間はあたしのモノよ―――” 「――フザけた事をぬかしてんじゃねェぞ…」 さも当然だと言わんばかりに告げられた、の言葉。 それに酷く気分が害されたのか大きな歪みを見せ、爛れた胸の激痛に耐える力になった。 しかし限界も近い。 とうとう玉をつくって頬を流れる脂汗を乱暴に拭い、荒くなる呼吸を落ち着けるため、走る速度を緩め手近な木の幹に手をついた。 …どうやら、レイムの術には毒の要素も入っていたらしい。 醜く爛れた場所からじくじくと血が流れ、一向に止まる気配がない。 霞む視界を忌まわしげに首を振って振り払い、が向かった先であるファナンの街並みを睨みつけた。 呪いのように体力を削られるばかりだが、血色の瞳は彼が持つ獰猛な光を失っていない。 「…――手前が、俺様のモンなんだよ…」 呟いた言葉は、無意識に零れたものだろう。 自分が何を呟いたのか一瞬理解が出来ず、それほどまでに思考が蝕まれている事に苛立った。 とにかくを追えばレイムにも繋がるかもしれない。 胸を覆い始める靄(もや)を振り払うように、バノッサは再び顔を上げた。 その時。 「いたぞトウヤ!」 「大丈夫か?」 ――唐突に、背後から声が投げられた。 聞き覚えのあるその声に今の自分は心底、嫌そうな顔をしていることだろう。 自覚せずともそれだけは理解出来て、嫌々ながらも振り返る そしてその感情は追いかけてきた彼らにも伝わったようだ。 トウヤはともかく、ソルが珍しく不服を訴えるような色を表情に浮かべている。 「何だよ、その顔は」 「ッチ…何でもねェよ」 「こんなところで兄弟喧嘩してる場合じゃないだろう。 レシィから大体の話は聞いたよ、バノッサはを追っているんだろう? 僕らも一緒に行くよ」 「…俺は吟遊詩人を追ってただけだぜ、ッ」 焼き爛れた肌から、じくりと血が溢れていく。 痛みに息を詰めて掻き毟るように胸を押さえると、トウヤがソルに目を向けた。 バノッサの態度にまだ不服そうなソルを見る目に多少、咎める色が映るのはトウヤなりにバノッサを案じてのことだろう。 「ソル」 「…む、分かってるさ」 ソルは観念したように、膝をつくバノッサに視線を合わせる。 怪訝そうに見上げてくる赤い瞳に視線を合わせぬまま、紫色のサモナイト石を取り出した。 それは煌々と光を放ち、優しい瞳の色をたたえる美しい女を召喚すると、リプシーの比ではない温かなぬくもりがバノッサの頭上に降り注ぐ。 光は、毒と熱に爛れた胸の傷を優しく撫でるように癒していく…。 「――ったく、しょうのない兄貴だよ。 アンタは」 「うるせェ、…可愛くねえ弟だな」 (お互い、素直じゃないよなあ…) 思わず浮かべそうになる笑みを手で隠し、バノッサの治療にしばらく時間をかける。 を追うにはバノッサの協力が必要不可欠なのだ。 「で、が今どこにいるか分かるか?」 自分たちの探していた少女。 それがだろうとトウヤは確信している。 その少女を探す際に、誓約者とバノッサの中で感覚が一番鋭かったのはハヤトとバノッサだ。 だからこそ、バノッサならばを見つけることができるはずだ。 トウヤの質問に答えるべきか答えまいかとしばし悩むように唸るも、胸の傷がすっかり塞がって、わずかに黒ずんだ痕を見せるだけになった傷に目をやり………観念したように溜息を吐いた。 後々面倒になるから借りを作るのはもうたくさんだった。 「…あのデケェ橋が見えるところから感じる」 「水道橋付近か…分かった、行こう!」 ”なんで俺が手前らと行動しなきゃいけねえんだよ”と言いたげな顔をあっさり無視して、トウヤは一番に走り出した。 活気溢れる下町飲食街を通り抜けると、陽気な住人たちが大騒ぎしている。 ”この騒ぎは何事か”と耳をたてながら戸惑う住人たちの間をすり抜けて進むと、彼らの会話が耳に滑り込んできた。 「モーリンの道場に竜が二匹も!」 「道場が爆発したぞー!」 「モーリンちゃん、大丈夫なのかしら…」 「豊漁祭への出し物の練習なのかねえ?」 「今年はド派手だねー」 「――良かったな、あいつら勘違いしてくれてよ」 (う、うわぁ…) (ごめんモーリン、あとでフォロー頼んだ…!) 後々、道場の主・モーリンがレヴァティーンとゲルニカの出現、爆発の説明に大慌てになるのを予想しながらも、トウヤたちはその場を後にするのだった…。 NEXT 第78話の2をお届けします。 この話が、ものすごく悩んだ気がします…悩んで悩んで、いつの間にか2週間以上経過。 …エエェエエ…!(遅すぎて泣きたい) バノッサとパートナー兄妹弟はどこかぎこちない関係であればいいなあと思っております。 そしてモーリン道場半壊の危機。笑。 次で終わる予定です。 ヨーシ、書き上げるぞー!!祭りハアハア…!! 2007.10.23 |