―――、ハァっ、ハァっ。 喘ぐようにこぼれる呼吸が薄暗い路地裏の空間に響き渡る。 建物の高い壁が密集して、陽の光が当たらない裏の道。 そこに自然と集まる者は様々な事情を持った、流れ者やならず者―――少女もまた、そのうちのひとり。 ―――、ハァっ、ハァっ。 どれだけ走っても、どこまでも続くこの空間は街の大きさに比例し広大にして複雑。 騎士や兵士の目をくらますことも可能だからこそ――人身売買、武器商人、外道召喚師、浮浪者、はぐれ召喚獣――そんな、様々な事情を持った様々な人種が集まる地域でもあった。 聖王家に統治された表の世界とは真逆に生まれた、もうひとつのゼラムの顔。 大きな街にこそあるべき現象だった。 ―――、ハァっ、ハァっ。 そんなもうひとつのゼラムの街を、少女はひたすら走り続けていた。 喘ぐようにこぼれる呼吸が薄暗い路地裏の空間に響き渡る。 建物の高い壁が密集して、陽の光が当たらない裏の道。 そこに自然と集まる者は様々な事情を持った、流れ者やならず者―――少女もそのうちのひとりだが、彼女は表の世界に逃れようとは思わなかった。 いや、逃れるわけにはいかなかった。 表に出れば人がいる。 表の路は多くの人間が通う生活路。 けれどそれは他の人間を確実に巻き込んでしまう可能性もあり、少女が囚われる可能性もあり、無関心な人々に救ってもらえないことを思い知らされる可能性もあり……だからこそあえて、少女は裏の路を走り続けた。 ――錆びた臭いが、自分をずっと追いかけてくる。 「……うっ…!」 臭いに、自分がしてきたことを思い出して彼女は唇をかみ締めた。 込み上げてくる感情に体がカッと熱くなる。 じわりと浮かぶ涙は幼い頬にこぼれ落ち、以前に聞いた、耳に残る誰かの悲鳴をぎゅっと目を瞑ることで振り払うと、立ち塞がる塀を目の前に少女の足裏は地面を強く蹴りあげた。 ―――高く跳んだ小さな体は、背の高い塀を軽やかに飛び越える。 重力から開放される一瞬にくるりと体を丸めて着地すると伸びっぱなしの青い髪はふわりとなびいて、小さな胸で緑石をつなぐ鎖が音をたてて揺れた。 美しい緑石。 それは宝石に似て、けれど宝石にはない不思議な輝きを帯びていた。 薄く汚れた少女の服には不釣合いの美しい金色の鎖で繋がれて、青い草原を思わせるその色の中には竜の影が映りこんでいる。 銀色の鱗に覆われた巨大な翼と鋭い爪は竜が持つ独特の獰猛さを匂わせるものの、翡翠色の小さな瞳には少女の身を案じる輝きが見えた。 「はぁ、はぁ、はぁ、…あ、…うん、だいじょうぶだよ」 竜の翡翠の瞳に小さく肯いて。 案じてくれる竜のペンダントを震える手で握り締めて、少女…ユエルは弱弱しく笑う。 「だいじょうぶ、だから…」 息が荒い。 空腹に目眩がする。 筋肉が悲鳴をあげている。 けれど今だけは立ち止まるわけにはいかない――キッと前方を睨みつけると、ユエルは再び走り始めた。 これも、一つの都市が滅ぶ前の話である。 第77夜 -2- それは数時間前――やはり、裏路地でのことだ。 「――その胸のサモナイト石を寄越せ!」 ユエルの緑石を奪わんとした人間に襲われた。 だがオルフル族は戦闘能力が高く、相手の人間もまたユエルにとって敵ではなく。 あっさりと撃退して見せたものの、表の路に近い現場だったせいか一般人にそれを目撃されて騒ぎになった。 今まで、決して見つかるまいとしていたのに、一瞬の緩みが祟った。 あのときの騒ぎが彼らを招いてしまったのだろう。 目立ってしまったことに自分の愚かさを悔やんでも悔やみきれない――ユエルは、足を止めないままちらりと背後に目をやった。 青空の明るさだけが路を照らす、薄暗い路地裏。 その暗闇の向こうには人影もない。 しかし走り続けるユエルの背後から、常に、複数の、静かな足音が絶えず追ってきていた。 それは人間には捕らえにくい音。 けれどオルフル族の耳にはしかと聴こえて来る。 足音からして四人。 彼らが一歩踏み出すたびにカチャカチャと細かな金属音が聴こえる。 それは彼らが身につけている、服の下に隠し持っている刃の音だとユエルは知っていた。 その刃で彼らが命を奪う瞬間を何度も目撃していた。 彼らが刃を振るう瞬間を思い出して、背筋に走る薄ら寒いものに肌がぞくりと粟立つ。 捕まってしまえば、また、”仕事”を強制させられる――! (いやだ!) 心の中で叫んで、空腹に力の入らない足を懸命に動かした。 しかし足音は常に背後をついてくる。 このままでは体力負けをして、動けなくなったところを囚われる。 囚われて、オリに閉じ込められる。 閉じ込められて、爪が血まみれになるまで誰かを殺さなければならなくなる。 どうしてこんなことに。 そうだ、そもそも、あの男が自分を召喚したことが全ての始まり。 あれがなければ、自分は今でも仲間や家族と一緒にいられたというのに…。 (うそつき、うそつき、人間は、うそつきだ…!) ―――最初は、言われるがままに<仕事>をした。 世界の仕組みが分からなかった。 とにかく何でもいいから、一日でも早く還りたかった。 彼らを殺せば、還してくれると言っていた。 ”ひどいことをする悪い奴なのだ”と教わっていたから、躊躇なく爪を振り上げた。 けれど、あるとき気がついた。 何度目かの夜。 目の前には、揺り篭の中で眠る幼い赤ん坊。 傷つき倒れた女の悲鳴とユエルの気配に目を覚まして、うれしそうに小さな手を伸ばしてきた幼い赤ん坊。 ――ソレを”殺せ”と命じられたとき、気がついた。 ユエルより小さくて。 ユエルに笑って、無邪気に手を伸ばしてきた赤ん坊。 そんな赤ん坊がどうやって、ひどいことが出来る? 赤ん坊に何が出来る? 何の罪がある? 母親が大きな腹を抱えて、呻き声をあげるほどの痛みを耐えて産んだのに。 誰かに守ってもらわなければ生きられないのに。 どうしてそんなことが出来るのだ。 どうして、笑っていられるのだ。 どうして、うれしそうに笑って、息絶える寸前にも関わらず子供を案じる女の顔を踏みにじることができるのだ――! 「――どこに行った!?」 離れた場所から怒声が聴こえた。 錆びた臭いが混じる、苛立ちの声。 反射的に全身がびくんと跳ね上がる。 震えに体が強張る。 しかし危険回避しようとする本能が硬直しかける体を叩いてくれたおかげで、足は止まることはなかった。 立ち止まることなくそのままに、美しい毛並みを持つ尾を揺らしながら薄暗い路を風のように、追いかけてくる気配を振り切るように駆け抜ける。 「ハァ、ハァ、ッ、ハァ」 太陽の光さえ届かない、薄暗い路地裏を無我夢中で走り続ける。 ときどき、道の端で座り込んだまま動かない人の姿が見えたが、生きているのか死んでいるのか確認をする余裕もなかった。 あったとしても、どうしようもないとユエルは知っていた。 死んだ人は、帰ってこないのだ。 何をしても帰ってこないのだ。 「はぁ、はぁ、っひ、はぁっ」 けれど、錆びた臭いが濃くなっていくのを感じると呼吸が乱れ始めた。 彼らが追いついてきている。 じわじわと気配が迫って、血の臭いが濃くなる。 恐怖が呼び起こされて、体の動きが鈍くなる。 「ハァ、ハァッ、ヒ、ハァッ」 呼吸が乱れると、走り続けていられるペースが分からなくなる。 ペースが分からなくなると、混乱が招かれた。 すでに庭と等しくなった聖王都の裏路地なのに、どこを走っているのか分からなくなってきた。 ここはどこ。 ここを曲がると、どこに出る? もし、飛び越えられないほどの行き止まりだったりすれば―――。 (いやだ…イヤだ!) 脳裏に木霊する悲鳴を振り切るように走った。 アレに捕まったら命令される。 何をしてもはずせない首輪の魔力がユエルの意思を奪って、理性を奪われる。 オルフル族の戦闘本能を剥き出しにされる。 戦うことしか、考えられなくなる。 (いやだ!) 混乱した思考のまま、道端に放置されていた箱の中に滑り込んだ。 隠れてやり過ごそうという安易な考えだが、体力が尽きかけてしまっている今はこうすることしか思いつかない――。 「…っ!」 箱にこびりついた生臭さや腐臭が、ユエルの鼻腔を突き刺した。 道端に放置された塵箱入れだったのか。 生理的に涙が浮かび、嗅覚が発達しているため込み上げる吐き気に嫌な汗が噴出した。 新鮮な空気を求めてすぐにでも抜け出したかったが、今抜け出せば捕まることは免れない―――捕まってしまえば、二度と逃げられない。 (いやだよ…!) 腐った臭いに責められながら、自分の体を強く抱きしめた。 歯を食いしばることで込み上げる吐き気と咳き込みを堪え、恐怖に震える体を無理やりにでも押さえつけて、気配を消すことに集中する。 しかしオルフル族は獣と同じく、嗅覚は人間の何倍だ。 そのぶん、刺激も何倍となってユエルの思考と精神を掻き乱してしまう。 掻き乱される。 ぐしゃぐしゃになって、自分が何をしているのか、何に追われているのか、何故こんなにも苦しくて辛い気持ちを我慢しなければならないのかと思うと、たまらず涙があふれた。 「っ、ぅぅ、…!」 嗚咽が、かみ締めた唇の奥からこぼれ出る。 すがるように胸のサモナイト石を強く握り締めれば、仄かに光る緑光のぬくもりがじわりと伝わった。 それは励ますようにユエルの手の中で小さな瞬きを見せる―――美しい淡い緑光に、涙があふれてとまらなくなる。 「ぅ…うぇっ、う〜…!」 そのぬくもりはメイトルパの太陽のぬくもりに似ていた。 あまりにも懐かしい温かみに大声を出して泣きたくなるのを堪えながら、次第に近づいてくる”彼ら”の気配に息を殺す。 彼らの接近はすぐ分かった。 獣の鼻を持つユエルからしてみれば、その臭いは消そうとしても消しきれず、ごかまそうとしてもごまかしきれるはずがない濃度を保っていた。 血臭が体臭にでもなってしまったかのように、それはきっと、二度と落ちるものではないだろう。 血の臭いが濃くなる。 いまだおさまらぬ泣き声をふさぐように慌てて口を押さえても涙は止められない。 とにかく体を強く抱きしめたまま身を丸めて息を殺し、追いかけてくる複数の気配が通り過ぎるのを待ち続ける。 かわいい赤ん坊だった。 無垢な瞳で、かわいい笑顔を浮かべる赤ん坊。 大切な命だと思った。 けれどユエルは殺してしまった――<誓約>という命令に、爪を振り上げた。 今でも覚えている。 感触は柔らかい肉だった。 その命はあっけないものだった……そして、残ったものは血染めの揺り篭と、絶望に顔をゆがめたまま死んだ母親の躯。 彼女たちが動かなくなった姿に理性を取り戻した瞬間、自分の口から悲鳴が出た。 限界だった。 爪の中に血がこびりついて取れないほど、何度体を洗っても血臭が取れないほど血を浴びて。 女子供も、男も老人も関係ないまま命じられるままに人を襲い、その命を奪う。 死んでしまえば、二度と帰ってこないのに。 ユエルが自分で命を絶ったとしても、決して帰ってはこないのに。 ……そんなことは、もう二度と、したくない。 (おねがい) (通り過ぎて。 ユエルのこと、放っておいて…!) 必死に、懸命に祈る。 必死に、懸命に願う。 ―――やがて静かな足音は、目の前を通り過ぎていった。 カチャカチャと鳴る金属音も一緒に遠ざかって、しんとした空間だけが薄い壁越しに伝わってくる。 (……い、った……?) 何事もなかったことに、おもわず呆然とする。 通り過ぎた気配は確かにあった。 足音もちゃんと四人ぶん、消えている。 けれど自分の感覚や嗅覚が信じられなくて、ユエルはしばらく動くことができなかった。 (…いった、んだ…) それをようやく理解すると、体中からどっと力が抜けていった。 臭くて汚い箱の中から抜け出す気力もなくて、座り込んだまま震える腕でフタを押しのけると、とたんに青い空が視界いっぱいに広がって。 「……ぅ、」 青い空。 それがとてもまぶしくて、涙が止まらなくなった。 大粒の雫がぼろぼろと頬をこぼれ落ちていくと、新鮮な空気を吸い込んだ口から声があふれだす。 「ぅ、あ、…、ぅ、うわあああああああああん!」 込み上げてくるままに、空に向かって泣き続けた。 逃れられた安堵と、込み上げてくる心細さと寂しさに涙はあふれて止まらなくて、汚れた両手で顔を抑えてわんわんと泣き続けた。 顔に腐った臭いがまとわりつくのも構わずに、涙に頬を濡らしながら幼いオルフルの少女は泣き続けた。 何度、こんなことを繰り返したのだろう。 何度、これを繰り返さなければいけないのだろう。 いつまで飢えと怯えに苛まれるのだろう――これは、たくさんの人を殺した罰なのだろうか。 けれども答えは見つからないまま、それが辛くてたまらなかった。 「うわぁぁ、ぁ、…う、ううっ、ぅ、…―――…ぅ、う」 ぽつりとつぶやいた名前に、ますます泣きたくなって泣いた。 脳裏に浮かんだのは、優しく笑ってくれた人。 初めて会ったはずなのに、助けてくれた人。 無条件で抱きしめてくれた人――千切れてばらばらになった心を、やさしくかき寄せてくれたひと。 「…、っ、ぅぅ、…、…」 つぶやいた名前は、どんどん口からあふれていった。 彼女も人間なのに。 どうしてこんなに会いたいのかわからない。 けれど彼女は出会ったときから不思議だった。 うっとりしてしまうほど甘い匂いをもっていて――それがとっても美味しそうだったなんて絶対に言えないけれど――会ったこともなかったのに、懐かしい。 故郷のメイトルパを思い出してしまうのだ。 元気にしているのだろうか。 あれから一度も、会っていない。 「あいたい、よぉ…」 、マグナ、トリス、ロッカ、リューグ。 彼らに会いたくて仕方がなかった。 ただ、会いたかった。 けれど彼らの匂いも、彼らの姿も、ここ最近は一度も見かけることはなくて―――。 「…!」 ひとつの気配を感じ取って、ユエルは再び体を強張らせた。 それはまっすぐに塵箱に近づいてくる。 大きな泣き声をあげてしまったから彼らが戻ってきたのだろうか……気配が近づくたびにユエルの心臓はばくばくと大きく騒ぎ立て始め、やがては箱を覗き込んでくるであろう気配を睨みつけるように青い空を睨んだ――だが、ふと、冷たい風とともに甘い匂いが漂った。 (え…) それは本の匂いに混じって薄っすらとしたものだが、けれど、間違えるはずもない甘さ。 あれから一度も出会っていない彼女の、匂い―――。 「…?」 警戒心が解けていった。 ゆっくりと近づいてくる気配に、どうしてこんなところに。そう思うことも忘れ、疲れて痛くてたまらなかったことも忘れ、塵箱を覗きこんできた影に飛びつくように抱きついた。 「! 会いたかっ――…あれ?」 しかしすぐに、それが違う人間なのだということを悟った。 抱きついて感じる感触や体格は男のものだ。 完全な人違いに思わず目を丸くして見上げると、初老の男のやさしい微笑がユエルの視界に映りこむ。 「おぉ、これはまた可愛らしいお嬢さんだ」 「あ…」 「お嬢さんも殿とお知り合いかな?」 青い服に染み付いた本の匂いのなかに、の匂いがあった。 言葉からして男もを知っているのだろう。 薄い鋼色の髪と同色の瞳には、突然抱きついてきたユエルへの警戒心はまるで見当たらない。 ただただ、やさしい光が灯った眼差しだけがある。 それが男を疑うことを忘れてしまうほどあまりにもやさしいから、口を開けたままぽかんと見上げてくるユエルに”どうしたのかな?”と小さく首を傾げてまた微笑むと、彼が生きてきた年月が刻まれた顔に愛嬌のあるえくぼが浮かんだ。 人違い。 とたんに抱きついてしまっていることが恥ずかしくなって、ユエルはカッと頬を赤らめて離れた。 「ご、ごめんなさい! あ、服も、汚しちゃった…」 「気にしなくても構わんよ――それより、こんなところで何をしているんだね? 迷子かの?」 涙で濡れたままの頬に、老いた男の指がそっと触れた。 「ここは女の子一人では危険な場所じゃ。 主人から離れて迷子になったならワシが案内もできるが…」 「…!」 ”主人”という単語に思わず、びくりと顔が強張った。 脅える表情を浮かべるそれに初老の男は眉をひそめたが、次にはふ…と優しい表情に戻り、ユエルの視線とあわせるように屈み込むと、ハンカチを取り出して汚れた頬を拭ってやった。 「わ、っぷ」 「殿は今、この街にはいないんじゃよ」 「え…いないの?」 「ああ、ちょっと事情があっての…ファナンの街にいると手紙があったが」 「ファナン」と繰り返し街の名前を呟くと、男はにっこりと笑った。 「殿はワシの息子たちの大切な友人でな…君も、殿のお友達かな?」 「……」 友達なのか分からなくて、ユエルは答えられないまま俯いてしまった。 それに男はやはり笑顔のままユエルの頭を撫でて立ち上がると、くるりとあたりを見回して、考え込むように顎に手をやった。 「だが…――彼らは、君の友人ではないようだが」 男の言葉に、四つの影が路地裏の暗闇から浮かび上がった。 影は四方に散らばって、逃がすまいと威圧感を醸し出しながら立ち塞がり、衣服の下に忍ばせた刃が小さく音をたててユエルたちを囲い込む。 どこをどう見ても不穏な空気を背負う彼らに、初めて、老人の顔に険しさが浮かびあがる。 「それは我々の所有物だ――返して頂こう」 「召喚獣を所有物という言い方は、ワシはあまり好きではない」 初老の男の言葉に、影の一人は苛立ちの音を響かせて言葉を返す。 「…貴様は、何者だ」 「さて…この子の友人の友人、とでも言えばいいかのう」 彼らに囲まれてしまったことにより血の臭いが濃くなった。 臭いにぞくりと粟立つ肌が、本能が、ユエルに危険を訴える――殺気がこぼれる瞳と鞘からゆっくりと引き出される鋼に、”彼ら”はこの初老の男を殺すつもりだと本能が警鐘を鳴らし続ける。 「おじいちゃん! 逃げてぇ!!」 牙を剥き、爪を鋭く振りかざすと一人に飛び掛った。 しなやかな跳躍とその素早さはまさに獣のもの。 しかし男はその攻撃をいとも簡単に避け、大きな手がユエルの首元に食らいつくと、喉を握りつぶさんばかりに力を込めた。 「ぅあっ…!」 「たかが獣が、喚くな」 冷たく言い放って腕を振りかぶり、細い首を掴んだまま地面に叩きつけた。 小さな体はあっけなく地面を跳ねて転がると、叩きつけられた衝撃に視界が大きく歪みを見せて、白と黒にチカチカと瞬いた。 意識が遠くなる。 けれど駆け寄ってくる老人の声に遠ざかる意識を引き戻すと、男を庇うように、ユエルはゆっくりと立ち上がる。 「にげ、て…」 彼はを知っている。 ならばも彼を知っているだろう。 ほんの少ししか一緒にいなかったユエルにさえ”やさしい人だ”と思わせるほどだから、きっと、にもやさしいに違いない。 そんな彼が殺されてしまったら、はきっと泣くだろう。 ――ああ、それを見るのは、とても嫌だ。 「逃げて!」 「逃がすな、殺せ」 相反する意味を持つ言葉が同時に放たれた。 その瞬間に三つの影はユエルと男に襲いかかり、迎え撃とうとユエルも足裏に力を込める――が。 「これ、お嬢さん」 「わぁっ?!」 「子供がそんな危ないことをするものではないぞ」 突然、笑顔の男に後ろから抱き上げられた。 軽々と浮かび上がる自分の体に驚きの悲鳴が出て、持ち上げた老人を睨もうとするも暗殺者の影は目の前にまで迫っている。 このままでは二人とも殺されるだけだ。 「離して! このままじゃ」 「ここは大人にまかせなさい」 ユエルを腕に抱き上げたまま、男はゆっくりと手のひらを開いた。 その中には鋼色の輝きを放つ石が収まっている。 鋼光を放つそれを目にした三つの影の動きを止まると、男の唇から謳うように言葉が紡がれた。 「ラウル・バスクの名のもとに、異界の門より応えて来たれ――…」 「この男、召喚師?!」 驚愕に呟く声が聞こえる。 だが路地裏は普段とは違う空気に包まれて、どこからともなく吹く風にその声は掻き消されてしまった。 伸びっぱなしだったユエルの青い髪も、男の衣服も風に煽られ、塵箱はガタガタとその身を震わせて力の流出に空気が震えていることを敏感に伝えてくる。 「機界の兵士オペレイクス、我らが前に出でよ――」 呼び寄せる者の名が謳われた。 その言葉に反応して鋼色のサモナイト石が力強く呼応すると、空間に、ビシッと亀裂が走る。 それに驚いてユエルは初老の男――ラウルの腕にしがみつくと、ラウルはそれを守るように抱き寄せてくれた。 「殺せ! あの男を殺せば術は不完全なものになる!」 叱咤するように放たれた命令に影の刃がラウルとユエルに向けられるも、不気味に鳴り響く音に彼らの足は止められた。 空間の亀裂が徐々に大きくなっていく。 それは向こう側から叩き割ろうとしているかのように、身を竦ませてしまうほど大きな音をたてながら。 その場にいる誰もが唖然とそれを見つめては、その音に恐怖を抱いて動けなくなる。 亀裂が砕けた隙間から、二つの光が小さく点る。 ずるりと伸びた二つの手が亀裂を押し広げ、巨大な体がリィンバウムの世界の上空に現れた。 頭部と思われる部分から絶えず黒い煙を吐き出して、ゴゥンゴゥンと低い音の響く体が亀裂からゆっくりと這い出すと、その片方の手には巨大な鉄球が先端についた棒が握られていた。 それは敵を粉々になるまで粉砕せんばかりで、その武器の凶悪さを思い知らせるには十分な姿をしている。 「――さて、」 ユエルを腕に抱え、背後にオペレイクスを従えながら、ラウルは影に振り返る。 巨大な召喚獣を目の前にした影たちはオペレイクスの武器の凶悪さに怯んだまま動くこともできず、ただラウルを見返すことしかできない。 「先ほど、はぐれ召喚獣に襲われたということで裏路地を調べていたのじゃが…」 ユエルはあっと声をあげた。 それはユエルの緑石を狙った人間たちと争ったことだろう。 慌てて胸元のサモナイト石を握り締めると、ラウルはにっこりと微笑んだ。 「どうやら、襲われたというのはあちらの勘違いだったようじゃの」 「…おじいちゃん」 「お前たちが何者なのかは知らないが、これ以上この子を傷つけるならばワシが相手になろう」 煙を吐き出すオペレイクスが、ブゥン!と武器を振り上げた。 ただそれだけの動作だというのに気圧され、彼らはラウルの力の強さを敏感に感じ取ったのだろう。 抜き身の剣を構えながらじりじりと後退を始める。 「主人に訴えるのも良いじゃろう。 <蒼の派閥>の召喚師として全力で向き合おうぞ――お前さんたちからは色々とでてきそうな感じはするがの」 「…くそ…このままですむと思うなよ、ユエルッ!」 忌々そうに吐き捨てると、影たちの姿は暗闇に溶け込んで消えていった。 引き際を心得ているあたりにただの無能者ではないことを知らせ、ラウルは小さく息を吐くと、上空の空間に体の半分を出したままのオペレイクスを見上げた。 「呼び出しただけですまんの、戻ってくれ」 ラウルの言葉に反応して、巨大な機械兵士の姿は光とともに消えていった。 故郷へと送還されていくそれを少しだけ羨ましく見つめていると、ラウルはユエルの顔を覗き込んで、やはり、また微笑んだ。 「大丈夫かの?」 「…おじいちゃん…召喚師だったんだ…」 複雑な感情をこめた声で問いかけるそれに、ラウルは寂しげに微笑んだ。 「ワシも、人間も、君たちには酷いことばかりしている」 「…」 「姿形は違っても、痛みを感じたり、悲しいという心があるというのに…本当に、申し訳ない」 それはユエルに向けられた言葉であったが、ここにはいない誰かにも向けられているようだった。 痛めつけられて、苦しんでいる人を見たことがあるように。 どこまで悔いても悔やみきれない感情が響くそれにユエルは少しだけ俯いて、…小さく、首を振る。 「ううん…おじいちゃんは、やさしいひとだよ」 「…」 「助けてくれて、ありがとう…」 その呟きは、少しだけ悲しそうに笑って抱きしめてきたラウルの胸の中に消えていった。 あとがき ユエルのサブイベントのアレに、ちょっと半泣きになった秋乃です。 サモンナイトのはぐれ召喚獣の悲壮さはこの子が一番キッツイです。本当にしあわせになってほしい。 もう何も言うまい…頑張れ、祭りまであとちょっと! 師範MOEにテンションをあげてあとちょっと続きます77話!もうひとつくらいで終わるかな。 師範が何の属性の術使うか知らないんですが霊属性か機械属性であればうれしい。師範ラブです。おっさんもえです。(落ち着いてください) ここまでお付き合い頂きありがとうございましたー! 2007.4.24 |