遠く響く、その声に呼ばれるように。 あたしの意識は至極ゆるやかに浮上した。 (――――、きこえる…) 浮かんだ思考は酷く曖昧。 全ての意思から切り離されたそのあやふやさは。 泡沫の夢を見せてくる。 それは誰かが、声をあげている夢。 (――――、なかないで…) 響く。 響く。 老人のように嗄れた声の、叫び声。 それは叫び声。 声の主が叫んでいる。 けれど、何故かないているようにも聴こえたから。 なかないで。と願ってしまう。 なかないで。 啼かないで―――泣かないで。 (――――もう少しだけ、がんばって) あなたを救おうとする人が、あなたに刃を振りかざすまで。 第75夜 -4- そんな曖昧だった世界は唐突に、衝撃に打ちのめされて壊れていった。 「ぃっ…?!」 全身を打つ痛みに、意識は急激に現実へと引き戻されていく。 訳が分からないまま痛みに苛まれる自分の身体を抱きしめるように身体を丸めると、冷たい土の匂いが鼻につき、砂が音をたてて頬を汚した――それらに、地面に打ち捨てられて倒れているのだということだけが理解できた。 体中にじんわりと広がる痛みに、呻き声がこぼれる。 「っぅ、…」 あいたたた。 これは一体何事なのよ。 それを呟く頭の中も、酷くぐちゃぐちゃになっていた。 脳を思いきり揺さぶられたようなそれに近い。 けれど何が起こったのかと理解するより、この痛みの前には屈服せざるをえず、ただひたすら身体の痛みが引くことを願うばかりだ。 痛みに身体を起こすことも叶わない。 っていうか、なんか今日は散々な目にばかりあっているような気がする。 今日は厄日だわ。 サド顎つきのとんでもない厄日だよコンチクショー! しかし、鈍い動きで回り続ける思考はそこで止まってしまった。 「―――ォオオォオオォ!!」 嗄れた声の咆哮が、あたしの鼓膜を撃ち抜いた。 しかし撃ち抜いただけでは飽き足らず、それはビリビリと空気を震わせる。 震えるそれを肌で感じたまま、強張った身体のまま、あたしは痛みに俯いていた顔を上げた。 風が、木々の葉をざぁっと揺さぶって過ぎていった。 吹き付けるそれは、土に汚れたあたしの頬の熱を冷ますように撫でて流れていく。 視界に広がる世界は、いまだ暗い夜のまま。 ―――しかし今夜は、夜独特の静かな世界ではないようだ。 「オォォォ――グ、ガアアァアアア、アァアッ、アァァアアアアアッッ!!」 再び、嗄れた声の咆哮があたしの鼓膜を撃ち抜いた。 その咆哮は、あたしの目の前で額を押さえ、凶悪な唸り声をこぼして震えているソレのものだ。 鼓膜を撃ち抜くと同時にソレは立ち上がると、腕を振りあげた。 「っ」 耳を塞ぎたくなるほどの音が脳内に響いた。 周囲に立ち並ぶ木々が、嵐に叩きつけられたように次々と薙ぎ倒されていく。 大木のように太い腕が無秩序に振るわれて、激しい音をたて、並ぶ木々を次々とへし折り、名残の葉を散らし、大地に根付くそれを根こそぎ奪い取っていく。 その度に悲鳴をあげる木々。 木を無理矢理にへし折ると、こんなにも激しい音をたてるのかと、そのとき初めて知った。 「―――」 凄絶なその光景に、うめき声すら出なかった。 風があたしの髪をさらいあげて天に昇ってゆくことも、意識の片隅にはなかった―――ただひたすら、目の前でのたうちまわるように木々をなぎ倒すソレに、全てを奪われていた。 何。 アレ。 ようやく、恐怖にがっちりと固まってしまった思考が、至極ゆるやかに動き始める。 リゴールに払われてしまってから記憶がぶっ飛んで、意識もぶっつりと途切れてしまったので、何がどうなってこうなっているのかさっぱり理解できない。 (落ち着け。 落ち着け。 落ち着けあたし) 身動き一つ出来なくなってしまった身体の麻痺を解こうと、何度もそれを心中に呟く。 あたしはお城にいたはずなのに、何故、食前の運動と言わんばかりに暴れている人(?)のすぐ近くで倒れてるのかわからない――いや本当落ち着けあたし。 食前はやばいよ、食前は。 食べる前ってどういうこと…っていうか食べられるのかあたし。 落ち着いて。 もうちょっと前向きに考えましょうよあたし。 じゃないと、手足の麻痺も、身体の震えが収まらないよ。 (でも、無理) 目の前の存在の激しさを見せ付けられて、前向きに考えることは無理な話だった。 (無理。 …あたし一人が、こんなの相手に、どうしろというのよ) 周りには誰もいない。 仲間どころか、あたし以外の人間はいなかった。 ……けれどそれは目の前で大暴れしているモノも同じということが唯一の救いか。 (いや、どっちにしても…絶望的ね…) 目の前のそれは、鬼と呼ばれる存在だった。 網膜に焼きつくほどの激しさに加え、闇をより濁らせたどす黒い皮膚や、大木のように太い腕はあたしにとって恐怖の対象でしかなかった。 肉が削げ落ちて露になった、白い牙が収まっているその口を閉ざすことも忘れてしまったのかべっとりとした唾液にまみれて、 巨岩のように大きな身体だというのに、その動きは鈍いどころかうねる嵐のように激しい。 なのにソレが持つ、鈍くくすんだ金の髪と金の瞳だけはなんと色鮮やかであることか。 (…もしかして、リゴール?) 鈍くくすんだ金の髪と、殺意に満ちた金の瞳。 その色は、シャムロックがずっと気にかけていた人の持つ色ではなかったか。 (でも、何で、あんなに暴れてるの) 奥底から噴き出す恐怖に身体を縛られたまま、それを見つめていることしか出来なかった。 無秩序に振るわれる腕。 巨体を支える両足で、倒れた木々を踏み砕く。 地鳴りを響かせ、夜の空気を震わせる。 よくよく見ると、もう片手には剣が握られていた。 素早く振られ、あまりの勢いにどんな型の剣を持っているのかも見えないが、それでも、月光に反射する鈍い白刃は確かに剣の形をしていた――何故、そんなものを持っているのだろうという疑問も浮かんだけれど、それは、砕く音に掻き消される。 「ォオオォ―――!!」 嗄れた声の咆哮が、月夜の空にどこまでも響いていく。 身体を動かすことに夢中になっているのか、目が覚めたあたしに気がついてもいない。 ただ、何かを振り払うように雄叫びをあげているそれは、ひたすら地面をえぐり、木々を砕く暴君と化していた。 あたしの存在すらも忘れてしまったかのように、あたしを一度も見ることなく――――。 (…あたし、忘れられてる…?) それを知ると、身体の麻痺が和らいだ。 流れる風を追うように、視線だけをぐるりと巡らせる。 周りには誰もいない。 そこでようやく自分だけがどうしてここにいるんだろうという当然の疑問が湧き出てきた。 ようやくまともに働き始めた思考回路のまま、もう一度辺りを見回す。 (…ほんとに、今日は厄日だわ) 夜の闇の向こうに佇む王城を見つけて思わず、げんなりとしてしまった。 あの中にいたはずなのに何故、こんな屋外にいるのか。 これはもう素直に、鬼にさらわれたと思うしかないようだ。 (―――、逃げよう) アレに立ち向かうのは無謀だ。 あっさりとその決断を下すと、身体、心、神経、感覚、本能――あたしの中の全てがその決断に大賛成するように活動を始めた。 満場一致で可決したその行動に出るために、身体の麻痺は完全に解けて、筋肉に力がこもる。 (ここは庭園。 ってことは、お城への道は…) 記憶から無理矢理地図を引っ張り出す。 街は闇に深く沈んで、庭園はすっかり様変わりしていたので、明るいうちに通ってきた道を思い出すのも一苦労だ。 (でも、酷いものね) この園の全ては今、醜く、枯れ果てていた。 街を訪れたときはとても美しい色の花を咲かせていたというのに、夜の世界での唯一の光源である満月に照らされているそれは、全ての生命力を抜き取られたかのように鈍い灰色に染まり、葉も落ちて、すっかり枯れ果ててしまっている……枯れるというより、生気を根こそぎに失ってしまったその色。 それはまるで、夢は終わりだと言っているかのよう。 (…――もう、ごまかす必要なんてないからか) キュラーも随分、いやらしいほどまでに手の込んだ演出をしてくれたものだ。 ただでさえ顔がいやらしい…ゲフン!(咳き込み) いや、ただでさえこの国に住む明るく笑う住人の姿には、状況の全てを知っているあたしでさえも騙されかけたけれど、長い間の手入れがされていないということまでも見事に隠して、完璧なまでに<トライドラ>を演出してくれた。 それは、憎らしいほどまでに、完璧だった。 トライドラで育ったシャムロックでさえも、何の疑問も抱いていなかった。 トライドラを知るフォルテも、何も思わずに城へ踏み込んでしまった――よく知る場所に心が緩んでいたとはいえども、それでも彼らには、あの明るい街の姿には疑うべき要素が何もなかった。 そう、疑うはずがない。 明るい故郷の姿を見て、何を疑えというのか。 (本当に、終わったんだ) 終わった。 全てが鬼へと成り果てて。 スルゼン砦と同じ、生きている人間が一人もいない……誰一人いない無人の国へと変貌を遂げてしまった。 それはあたしの知る、物語のとおり。 まだまだこれから続いてゆく物語の一部を、終えてしまった。 でも今のこの状況は。 あたしの知らない、物語。 (とにかく、今は、死に物狂いで逃げるべし…!) ゆっくりと腰を浮かし、両手を地面について、脚に力をこめる。 砕かれた木々の木片を頭にかぶりながら、それでも目はしっかりと見開いて鬼の姿を凝視する。 こちらを見ませんようにと、心の中で三回ほど祈ると。 全速力で駆け出した。 「オオオオォオオオォォ――――!!」 雄叫びが、あたしの背中を追うように降りかかる。 あまりのその激しさに足を止めかける――けれどそれでも、歯を食いしばって振り切った。 止まれば終わりだ。 いくらなんでも、それだけは分かる。 「うわっぷ…!」 茂みに突っ込んで、それを飛び出す。 干からびたようにカサカサになった灰色の草木は、あたしが突っ込んだだけで半分以上の葉をあっさりと落としてしまっていた。 散っていく葉にも構わずそれを踏みしめ、わき目も振らず街中を駆け抜ける。 整えられた石畳の道と、道を囲うように立ち並ぶ店は何も変わっていないのに、なんで、今は、こんなにも変わってしまっているのだろうと思うと、なんだか泣きたくなってきた。 建物が、家があるのに人がいない。 土も風も水も空気もあるのに、生き物がいない。 人も植物も動物もいない国。 そんなもの、廃墟と何が違うんだろう。 「オオオッォォ――!!!」 リゴールだったものが、あたしをしっかりと追いかけてくる。 存在感と威圧感が凄まじいから、振り向かなくたってわかってしまう。 スルゼン砦では屍人。 ローウェン砦では猛獣たち。 トライドラでは鬼ときた。 だんだんゴージャスになってきてる気がする。 ものすごくグレードアップしているような気がする。 砦は鬼門なのかしら。 だったら残りひとつのギエン砦には絶対近づいてたまるか――――荒々しく酸素を取り入れながら、そんなことを心に刻んで走り続けた。 ああもうカミサマ。 ほんと勘弁して! 「オオオォオオォォオ――――ッッ!!!」 背後の空気が、大きく歪んだ。 次いで、唸るような音を耳にする――本能的に頭を抱えながら頭を下げれば、頭上で凄まじい音が轟いだ。 「っ――!!」 あまりの凄まじさに、声にならない悲鳴が飛び出す。 けれどそれすらも轟音に掻き消され、降りかかるのは石の欠片。 それは大から小までさまざまで、豪雨のごとく、容赦なくあたしへと降りかかる。 痛みに顔を歪めながら、視界の端で石の雨を生み出したそれを見た。 それは、剣だ―――リゴールが振りかぶった剣は、その剛力にモノを言わせて、あたしのすぐ傍にある民家の壁を打ち砕いたのだ。 砕かれたそれが頭上から降り注ぐのは、あたしとリゴールとの体格の差で、砕いた場所があたしの頭の上の位置だったというだけの話。 「っ…!」 止まりかけた足は、どうにか踏ん張って転倒を避けた。 石が額にぶつかったのか、額から血が出てあたしの頬を伝っていく。 それを汗と一緒に拭いながら足を動かせば、再び剣を振りかぶる気配が悪寒に肌を粟立たせる―――。 (しまった) それを思ったときには遅かった。 風圧に空気がいびつに歪むと、それはあたしの足元の石畳に振り下ろされた。 ブォン! と振り切る音が届いた刹那、地震にも似た振動があたしの全体を荒く揺さぶって、足場を叩き崩される。 ――足場が、砕ける。 「ぅ、わっ―――!」 石畳が割れて、土の地面が露になった。 崩れたそれに足を取られ、転がるように転倒する。 すぐに起き上がろうと力をこめれば、あたしの身体がぎしぎしと悲鳴をあげていることに、そこでようやく気がついた。 「いっつ――」 身体中が、悲鳴をあげていた。 長い距離を、休む間もなく全力で走ってきたせいか。 肺が痛んで息がしづらい。 身体を動かす酸素が足りない。 どこもかしこも酸素を欲しがって、一度に取り込む酸素じゃ全然足りない。 けれど目の前に立つ鬼は、肩で息をして、ぎらついた金の瞳であたしを見下ろしている。 (っ、非常識、過ぎ…!) 自分の体力のなさにも後悔したが、それなりに補強もされている石畳ごと道を粉砕してしまうなんて、なんという力か。 これが鬼の力。 シルターンの霊を憑依された人が得た力――あまりにも強力なその破壊力は、兵士として動かせば一体、どれほどの人間がゴミのように殺されていくのだろう。 …それを思うと悪寒が背筋を走っていった。 (こんな力を使った、戦争が) 過去に何度も起きたのか。 これからも起きようというのか。 マグナもアメルも、ルヴァイドたちも皆、こんな戦争に巻き込まれていくのか――。 「――、いやよ」 震えた声でこぼれた言葉は、無意識に出たものだった。 彼らが、戦争の中心に立つ。 それを思うとすごく嫌な気分になる。 胸が苦しい。 不安になる。 「嫌よ。 嫌だ――いやだ」 そんなことにはならないと知っている。 知っているのに、胸がしめつけられる。 酷くムカムカして、怒りにも似た苛立ちがこみ上げた。 自分自身に何故と問うて、答えはすぐに返ってきた。 彼らが好きだからだ 好きだから、失うことが怖い 失いたくない もう、誰かが泣き叫んで終わる戦争なんてまっぴらだ―――。 (でもそれは誰が泣いていたのかワカラナイナンテドウシテ―――?) ――身体の奥底から力が湧き出てきたように、足が、力を取り戻す。 立ち上がって、横の壁に手をついて自分の身体を前に押し出すと、逃すまいとした背後のリゴールの唸り声と、剣を振りかぶる音が聴こえた。 それに構わず大きく一歩踏み出せば、風圧に薙ぎ倒されて、また地面に倒れた。 「ぃっ!」 石畳の上を滑り、石が肌をj削る。 頭を強く打ったのか、世界がぐるんと大きく回って、手足が繋がっている感覚が急速に失われていく。 意識が、闇へと突き落とされる――――…。 (――目を開けて) 「―――、!」 ―――あたしの奥底から響くの誰かの声と。 あたしの名前を呼んだ声に引き上げられて、重い瞼を持ち上げたそのとき。 力強い片腕が、あたしの身体をさらうように抱き上げた。 (…、なんで―――) なんで。 どうして。 そんなことを思う、ぼやけた視界の中で。 紫がかった赤い髪が。 月明かりの中で、眩しいくらいに鮮やかに広がった。 NEXT あとがき すみませんんんんんなんか続いてるぅううううううううううう!!! 進展、なし…!? 後半も入れたら長くなってきたので、分けました…。 打てば打つほど長く…次回でようやく彼らが登場。 2006.6.14 |