力が 必要だった




それがなければ守れないものが 多過ぎた








第75夜 -2-








 バリ。


 引き裂ける音がする。


 バリバリ、バリッ。


 音を増やして、響いていく。


 ビリリッ。


 それは何が。
 何だったモノが、裂けるのか――。
 



「――マジかよ」

 フォルテの呟きが、乾いた声でこぼれ落ちた。

 彼は、自分が見ているものが一体何なのかわかっているはずなのに。
 王家の子息である彼は確かに、裂けていくモノの、微笑みも優しさも厳しさも全て見てきたはずなのに。
 そうして彼は自分と共に剣を覚え、剣を振るい、その強さと剣を得たというのに。

 裂けて、暴かれていくモノに乾いた声をこぼす。


「リゴール、殿…」


 名を呟くそれも、乾きを帯びて。


「なんで、」


 叫びだすのを堪えるように、唇を噛み締めて服の胸元を握り締めた。
 それでも裂けていく音は止まらない。

 裂ける肌から血が溢れるのに、その下に見えるのは人間の筋肉ではなくどす黒い肉。
 顔の皮膚がバリバリと乾いた音をたて剥げ落ちていくとその下にはやはり、顔と同じ腐ったようにどす黒い皮膚だ。 額からは人間の皮膚を突き破り、血を溢れさせながら太く短い角が生え伸びて、口周りの肉がごそりと削げ落ち、肉を引きちぎることも容易だろうと思わせる鋭い歯が醜く現れてゆく。
 それが姿を現すたび、聖域ともされる緋色の玉座に立ち込めるのは、鉄錆びた血の臭いと、死んだ人間が放置された腐臭や死臭。 裂けて、剥がれ落ちていくその光景は恐怖と不気味さで、その場にいる人間の心を犯していく。

「…っ」

 シャムロックは、その光景を唖然と見守ってしまっていた。
 剥げ落ちてゆく皮膚の匂いに吐き気が込み上げるが、それでも、目を逸らすことは出来なかった……目を背けようという意思すら、シャムロックの中から掻き消されていた。

 <それ>はシャムロックの心さえも引き裂きながら、姿を、形を、変えていく。
 既に人間の皮膚ではない物へと変化してしまった両手を広げ、いくつもいくつも溢れては止まぬかのようにトーンを上げて、歪んだ嗤い声にも似た声を謁見室に満たしていく。

「り、ゴール、様…」

 フォルテと同じ、唇からは渇いた声がこぼれた。
 名を呟く声が今にも消えてしまいそうだ。

 信じたくない。
 信じられない――ああけれど、それでも、目の前に立つモノは、もう。


「グルオオオァアアアァアアァァァーーーーーーーーーーッッッァ!!!」


 <リゴールだったモノ>が、この世に出でた悦びの雄叫びをあげる。
 咆哮は水が満ちていくがごとく一瞬にして室に広がっていった。 広がるそれは声だというのに、空気を通して触れた肌はびりびりと痺れ、全てを怨むかのような声の大きさとその深さは耳をふさぎたくなるほどだ。
 <それ>はやがて、獲物を喰らうために進化した獣じみた牙を覗かせて、どす黒い肌にこびりついた<リゴールだったモノ>の皮を引きちぎって放り捨てる。
  
「そ、んな、」

 血の臭いが。
 肉が腐った、臭いが鼻腔にこびりつく。

「…そんな…リゴール、様…!」

 ただ、必死に叫ぶシャムロックの声を悦ぶかのようにリゴールの唇は醜悪に歪み、彼の、太く大きな手―――その皮膚は腐ったようにどす黒く、爪も凶悪な形に伸びて歪んでいた―――は、窮屈な場所に閉じ込められて、鈍ってしまった身体の感覚を取り戻すかのように硬く、握り締めた。
 その手も、指も、爪も、存在も――もはや、ヒトとは呼べない。

「っリゴ−ル様…!」

 力の入らぬ足を叱咤しながら彼へ歩み寄ろうとも、<リゴールだったモノ>は言葉を返さない。
 返るのは、威嚇するような雄叫びと、角を得た顔に浮かぶのは獲物を見つけた悦びだけ。
 唯一彼の名残を見せる瞳さえ狂乱めいた光にぎらついて―――もはや、誰の目から見ても彼は彼ではなくなっていた。

 声も、姿も、形も。
 ――人々に称えられ愛されたその心も。


 彼らが愛した、あの存在さえも。 


「――――――あ」


 糸が切れたように膝をついたシャムロックからこぼれたそれは、乾いた声ではなかった。
 喉奥から搾り出したものでも、それでも乾いたものではなかった。

 涙のない、それはただ。


「――――――ぅ、ぁ、ぁああああああぁぁぁあああっーーーーー!!」




 血を、吐くような。

 絶望を吐き出すような。



 心を引き裂かれた、声だった。










 




 ―――ここはどこだというのだろう。


 男は、そんなことをぽつりと考えた。

 暗闇を抱いた泥に沈んでいく身体が熱い。
 それはまるで、灼熱の炎に身を焼かれているよう。
 熱くて。 熱くて。
 でも肉が焦げたような臭いもなく。
 ただ、今にも粉々になってしまいそうな意識が思考を、必死に繋ぎ止めていることだけしか理解できない。


 ここはどこだ。
 ああ、私は死んだのか。


 思い出せるものは断片的なものだけ。
 パズルのピースのように、模様の合わない欠片だけ。


 死んだのか。


 それすらもわからない。
 ただ、虚ろな思考に映るのは。

 我が子のように愛しい街並み。
 屈強な騎士たちの整列。
 市民の笑顔。
 子供達の笑顔。
 愛しい人間の笑顔。
 血のように妖しい輝きを持つ緋色の瞳。
 その者の導きにより招かれた禍々しい漆黒の炎。
 それから。
 それから…。



 ”―――リゴール様、リゴールさま…ウソだ…ぅう…っ!”




 心を引き裂かれたような。



 誰かの、こえ。




 ”どうか、どうか目を覚ましてください―――”




 ああ、そんな声を出してくれるな。



 おまえは、
 ちからのないものをまもるにんげんなのだから鬼ノワタシヲ討ツコトモ何モ躊躇ウナ―――。




 汚泥が、小さな灯火のように揺れる意識さえも呑み込もうと、より深く沈めていく。
 息が出来ないなとど苦しむ感覚も神経も何もない。
 我が身が沈む。としか理解が出来ない。


 感覚も感情も自分自身というモノも全て、呑まれていく。


 
 ―――アア。


 
 消えてゆく自分。
 失っていく自分。
 恐怖心さえもなくなっているはずなのに、恐ろしい。
 呑み込もうとするモノの存在がとても身近に感じられて、
 それの嗤い声も聴こえて、恐ろしい。



 けれど何よりも<おそろしい(かなしい)>と思うのは。








 ――――タノムカラ、ソンナ声ヲ出シテクレルナ…。








 灼熱の炎越しに聴こえた、誰かの悲しい声だった。














 ――鬼が、巨体に似合わぬ俊敏さをもって緋色の床を蹴った。
 ただそれだけの動作で緋色のカーペットは裂けて乱れ、その巨体の重みに耐えかねた石床が大きく亀裂を生み出した。 咆哮をあげて振り上げられるのは丸太のような腕。 叩き付けられるだけでどんな死に方をするのかだけが充分に予想できる。

「ボサッとしてんじゃねぇよ!」

 バルレルの細腕が突き飛ばすように伸びて、迫りくる鬼を呆然と見上げているシャムロックを巻き込んで転倒した。
 少年はすぐに体制を立て直し武器を構えるも、シャムロックはのろのろと身体を起こし地面を見つめるだけで、戦意喪失は誰の目から見ても明らか。――そんな姿を見てバルレルは毒づく。

「ッケ、こりゃぁ使いモンになんねぇ」

 次いで、少年らしい大きな双眸が少年らしからぬ光を宿し、咆哮をあげている鬼を見た。

「―――この鬼…」

 目の前に立つのは、皮膚が腐ったような黒い肌を持つ鬼だった。
 言語を理解していないのか、裂けたように大きく開く口から溢れるのは雄叫びだけ。 だがバルレルたちは喰らう獲物として認識されているのか、その瞳は禍々しいまでに恍惚で、悦びばかりの光で満ちている。
 巨体から滲み出る瘴気はもはや、人ではない証。
 あれは怨みと怒りと悲しみという負の感情で生まれた、悪鬼と呼ばれる鬼が持つものだ。
 元は人間だったものが、悪鬼に変ずるということは――あの人間の魂はもう、喰われてしまったのだろう。

 ほんの少しだけ哀れむように、赤い瞳は伏し目がちに伏せられた。

「助からねぇな」
「…そん、な…」
「おいニンゲン。 ぼさっとしてねぇで構えろ、鬼はコイツだけじゃねぇぜ」

 吐き捨てるように言い捨ててシャムロックから離れ、バルレルは地面を蹴った。
 <リゴールだったモノ>に立ち向かう少年の小さな背を見送って、シャムロックがようやく、のろのろと首を動かせば。

 
 かつて見た顔の名残を残す鬼達と闘う、仲間達の姿が視界に映る。
 

「そ、んな」

 謁見室に満ちる雄叫びが、数を増やしていく。
 地割れが起きたような足音も、飢えと欲望にぎらりと輝く瞳がいくつも増えていく。
 数本の蝋燭と窓から差し込む月明かりが唯一の光源となって室内を照らしているが、光届かぬ部屋の隅で蠢く影と瞳の光を見ると、背筋が逆立つような不気味さが全身を駆け抜けていった。

 戦闘は、激しさを持って繰り広げられた。
 喰らう意思を持って襲い掛かる鬼たち。
 それを迎え撃つ仲間達。

 剣と鬼の金棒が交われば、火花が散った。
 召喚術を放ったのか、爆音が室内に木霊して建物を揺るがしてしまう。
 もともと、それほど力の強い鬼ではないらしい。 日々戦い慣れている彼らならそれほど驚異的でもない――けれどもそんな中で、誰もが苦悶の表情を浮かべながらも剣や杖を振るうのは、この鬼達の正体を感じ取っているからだろう。


 ……きっと、彼らも、領主と同じで。


 同じ道を―――辿ってしまったのだ、と。


「何故、こんな…」


 嫌な予感が。
 考えが思考を埋め尽くす。


 ”街の人間の、全てが?”


(そんな、馬鹿な)

 今、自分が考えているような事態は、ありえない。
 

 …ああけれど。


 この世界には、あるではないか。
 この世界には、全ての常識を覆す<奇跡>のような術があるではないか。



 他界の者の力を使役する、<召喚師>と敬まれる人々。

 

 そして彼らはどんな事が出来るかを知っているし。
 つい最近、思い知ったではないか――恐ろしさと力の有様を。



「召喚、術…」

「――お気に召されましたか、人間の騎士よ」

 老人のように嗄れた濁りを持って響く雄叫びに混じり、シャムロックの呟きに言葉を返したのは、なんとも愉快そうな響きを含んだ男の声だった。
 返された言葉に導かれるように顔を上げ、緋色の玉座へと目をやる。

 緋色の玉座に、人影を見た。
 一人の男が緋色の玉座を自分の椅子のように腰かけて、気品めいたものを醸し出しながら長い足を組み、ゆったりとくつろいでいた。
 そして一度、その手すりの感触を楽しむように優しく撫でてから、神経質そうな色が浮かぶその端整な顔を彩る、血の色にも似た緋色の瞳を細く笑ませて愉快そうにシャムロックたちを見下ろした。
 玉座の近くに設置されている蝋燭台の明かりが死人のような青白い肌を照らすが、明るく照らされても男の顔に生気らしい生気は浮かばず、逆に、影が濃密になり、よりいっそう不気味さと残虐性を秘めた瞳を妖しく輝かせる。

 男の長い指先が自らの顎を撫でて、薄い唇は、丁寧な口調で言葉を紡いだ。

「お初にお目にかかります聖女御一行…いえ、一部はワタクシを見たことがあるかもしれませんがね。 そこの人間はお久しぶりです、とでもいいましょうか」

 男の姿に、リューグははっと息を呑んだ。
 リューグは確かにこの男に見覚えがあった――以前、デグレア軍駐屯地で出会った、薄気味悪い男。
 存在自体がとても危ういものなのだと本能が散々警鐘を鳴らしたというのに、この男相手に自分は何も抗う事ができなかった……この男の言葉は、あまりにも、心を揺さぶる。

「テメエは…!」
「時間が押しているので用件のみを告げます…聖女をこちらに寄越しなさい」


 誰だ この男は


 そんな疑問が浮かぶと同時に、その疑問は唇から零れていた。

「おまえは、だれだ」
「クックック…」
「おまえは、何者だ…リゴール様に、皆に何をした!?」

 シャムロックには記憶のない男。
 見知らぬ男。 ――しかしシャムロックを見下ろす双眸はまるで血のように赤く、それはローウェン砦の人間を食い尽くした女召喚師を彷彿させる空気を纏っていた…姿形はまるで違うのに、あの目は、ビーニャと同じものだと確信出来るものが確かにあった。

 睨むように見つめるシャムロックに男は、くつくつと暗い嗤い声をこぼし。

「ああ、どうやら気に入って頂けたようですね。
いやはや、無駄に量が多いので少し苦労したのですよ」

 量が多い。
 それは、街の人間のことを指しているのか――。

「特にあの領主は人間にしてはよく持ったほうですが…しかし我が術の前では塵にも等しい抵抗でした」


「―――あなた、この街の人たちに鬼を憑かせましたね」


 言葉と共に、リン、と清らかな鈴の音を響く。
 鬼から放たれる瘴気に淀むことない空気を纏いながらシャムロックの隣に立つのは、たおやかなるシルターンの巫女だった――名を、カイナといったか。

 長く編まれた黒髪は柔らかに揺れ、幼さを残したその顔はどこにでもいる少女そのもの。
 だが、男を見やる黒い瞳は純粋な、強い輝きを放っていた……おそらく、彼女が誰よりもこの状況と深刻さを理解し、玉座に座す男がしでかしたことの意味を危惧しているのだろう。
 ――無理もない。
 街の人間を全て鬼に変じてもなお疲弊の色を浮かべない男の魔力の底深さは、最早、人間の域を超えているのだ。
 エルゴの守護者として生きる彼女には、放っておけるわけがない。

「何故…」

 声は、すべらかな絹ような柔らかさを持っている。
 だが、普段に柔らかな微笑を浮かべる彼女の今の横顔は、世界に悪鬼がはびころうとも恐れずに、果敢に立ち向かう巫女に相応しいほど凛としたもの。

「何故このようなことを」
「確かに、貴女の疑問は最もですが――」
「あなたは何者ですか」

 お前の言い分など聞かぬと告げているかのようなカイナの追求に、男は”時間がないのですが…付き合って差し上げますか”と肩を竦めた。 長い足を組み替えて、しばらく思案に耽るかのように目を伏せ。

「では改めて名乗りあげましょう―――ワタクシは悪鬼使いキュラー。
 デグレアから一つの命を受けてこの地に馳せ参じた一介の召喚師です」

 立ち上がり、優雅に礼をして、己の目的と名を告げる召喚師。
 その薄い唇が愉快そうな笑みを形作ったまま、デグレアの名に驚く面々の表情を楽しむように見回した。 次々と、彼らの行く先にデグレアがいるのだ。 一種、不気味ささえも覚えてしまう。
 見回して、その笑みがようやく満足したように再びカイナへと向けられれば、カイナはそれに怯むことなく、しっかりと見返しながら隣にいるシャムロックに呟いた。

「シャムロックさん、あの方は…もう、領主様ではありません」
「…!」
「あれは憑依召喚術という種の術で、憑依者に絶大な力を与えることもありますが…鬼や霊など、実体のない魂を憑かせ人ではない存在へと無理矢理に変じてしまうこともあるのです」
「そんな術まで、あるのですか…召喚術は」
「これは憑依召喚術の一種で、特に禁じられた外道のものです。 本来ならば使ってはいけないと定められ、危険なものとしての認定も受けています」

 カイナの説明に、キュラーはふう、と溜息を吐いて。

「危険? とんでもない―――この男…領主は特に誰よりも、力を望んでいた。
ワタクシはそれに手をかしただけです」

 欲しがっていたものを与えただけのこと。
 そう呟く召喚師の言葉は、天気の内容を話すかのように、とても軽く。

「その鬼がどうなろうと知った事ではありません。 ただワタクシの本来の目的はこの地を滅ぼすこと。 聖女は見つけてしまったついでといったところでしょうか…そしてこの地を落とす命令はすでに完了しました――ワタクシはガレアノやビーニャのように手を抜かない主義なのでもちろん、住民一人、残しておりませんとも」
「っ」

 シャムロックは、唇を噛み締めた。
 あっさりと言葉にした任務内容。 それの真偽を問うことなど、必要ない。
 キュラーを守るように立つリゴールや、シャムロックたちを囲う鬼たちが何よりの証拠なのだから。


 視界が、
 怒りに、
 赤く、染まっていく。


 誰かを、ここまで憎く思ったのは初めてかもしれない。
 初めて、殺してやりたいと。
 殺して、二度と、目の前に現れることがないまでに、殺してやりたいと―――。

(違う、今は、それどころじゃない)

 まずはリゴールたちを救わなくては。
 救えるのかわからない。 カイナの言葉は、もう手遅れだと告げている。 けれどそれでも、どうしても、何をしてでも彼らを救わねば。 助けてやらねば。 諦めてしまったら今度こそ本当に間に合わないかもしれない。

 
 ローウェン砦で、たくさんのものを失った。


 だから、これ以上は、奪われるわけにはいかない。


 守ると、決めたのだ。
 大切な人を。
 大切な人たちを。


 そのために、騎士の剣を得たのだ。


 狂い潰されてしまいそうな感情に呑まれそうになる自分をどうにか押し込め、それでも、今までにない殺意をこめて睨めつけるシャムロックをキュラーは愉快そうに見下ろしつつ、ふと、唇を笑みに歪ませて。

「しかしそんな疑問より、貴方がたはもっと別のことを問うべきではないですか?」

 そんなことを、シャムロックたちに問うてきた。
 まるで謎かけのように、軽い問い。

「別の、疑問…?」

 別の、疑問。
 リゴールのこと。 周りを囲う鬼たちのこと。 この国のこと。
 ―――それ以外にまだ、そんなものがあるのか。




 そこで急に、全身の体温が下がったような気がした。




(………、あ、る)


 ごくりと、喉を鳴らして息を呑む。
 悪寒を覚えるように、冷や汗が、シャムロックの背に浮かんだ。


 ある。

 まだ、気に留めるべきことがもう一つ。


「………だ」
「何か言いましたか」

 震える声に平然と返す声が酷く憎らしい。
 それでもシャムロックは唇を強く、強く噛み締めてから、搾り出すように言葉を紡いだ。


「―――はどこだ」


 そう。
 彼女は、どうしたんだ。
 体調が良くなくて、青い顔をして、苦しい顔をして、眠っているのではないか。
 …だから、謁見がすんだらすぐにでも、彼女の顔を見にいこうと思っていた。

 思って、いたのに。


に、何をした」


 自分の言葉なのに、それを告げてから胸の奥が、ざわざわと騒ぐ。
 無意識に剣を引き抜きながらそう問いかけても、キュラーの笑みはますます深まるばかり。
 ……見ていて、吐き気がしてくる。

 しかし、対するキュラーは軽く、首を捻り。

「さて、どうでしょう」

 思案するように天井を仰ぎ、
 そして、今思い出したと言わんばかりに、薄く微笑み。


「――― 一足先に、色々と楽しませてもらったので今も気を失っているかもしれませんね」

「―――」

「恐怖に引きつる悲鳴も、すすり泣きながら助けを求める声も甘美なものでした…やはり女とは、どうにも男を惹き寄せるものがありますね」




 昏い笑みと、その言葉に。




 ぶちん、と引きちぎれるような音をたてて何かが切れた。




「っっあぁあああぁぁーーーーーーっ!!」

  嫌な予感が広がっていく思考を打ち消さんばかりにそれを叫び、カイナが制止するよりも早く床を蹴り、剣を振りかぶりながらシャムロックは疾走した。
 一秒でも早くキュラーに近づこうと低姿勢で地を駆けるも、キュラーの余裕は崩れない。
 
 ただ、おかしそうに肩を竦めるだけ。
 そして。

「ああ、周りを見ないと死にますよ?」

 忠告めいたことを、一言。
 途端に現れた、キュラーへの突進を遮るように立つ影の持ち主にびくりと足が竦んでしまった。 怒りに忘れかけていた我が、その影の姿に無理矢理、現実に引き戻される。

    リゴール、さま」

 キュラーを庇う鬼の手が、素早く前へと繰り出された。
 分厚く大きな手がシャムロックの前髪を引きちぎらんばかりに掴むとそのまま床に引き倒し、叩きつけるように引き倒されたはずみで離れた剣を、鬼はその太い足で壁の隅へと蹴飛ばした。
 石床を滑る音を剣の音をどこか遠くに聞きながら、シャムロックは<リゴールだったもの>を見上げる―――やけに不気味に輝く金色の瞳と、視線が絡む。

 だがそれを合図にするかのように、強い衝撃が脳を揺らした。


「がっ…!」

 後頭部に、強い衝撃。
 顔面を床に叩きつけるように拳を打ちつけられ、一瞬、意識がぶつりと途切れてしまう。
 視界が、思考が、全て途切れる。

 そのまま暗闇に沈むかと思われたそれを繋ぎなおしたのは、名を呼ぶフォルテの声だった。

「シャムロック!」

 剣を抜いて、シャムロックに乗りかかる鬼へと白刃を閃かせた。
 切りかかろうとするその行動にシャムロックの制止が耳に届いたが、フォルテの目から見ても、彼は自分の知るリゴールではなかった…原型はリゴールでも、今は、決して、彼ではなかった。 このまま彼を倒さなくては、シャムロックは嬲り殺されてしまうだけだ。

「―――っ!」

 しかし、リゴールの面影を残す金の瞳を見ると、身体が、足が、鉛のように重くなる。
 あれは違う。
 もう、リゴールではない。
 わかっている。 殺さなくては殺されるだけだ――自分達はまだ、死ぬわけにはいかない。


 わかって、いるのに。



 わかっているのに―――!



「…おや、良いのですか?」

 言葉に、心臓がドクンと跳ねた。

「姿形は違えども、彼らは領主、そしてこの国の民の一人ひとりでもあるのですよ」
「っ」
「かつての仲間を殺そうとするとは…人間の情は本当に脆いものですねぇ、クックック…」

 駆けるフォルテの目前に迫るのは、シャムロックを押さえつけている<リゴールだったもの>。
 醜悪な顔が、ぎらついた瞳が剣を振り下ろそうとするフォルテへと一直線に向けられる…向けられたそれに脅えるように、その巨体へと振り下ろす剣はとてつもなく鈍いものとなっていた。
 重く、鈍い剣など、こんなもの、素人でもあっさりとかわせる。


 そしてあっさりとかわされて、反撃がフォルテを襲った。


 鋭い蹴りが、鎧のない腹部に叩き込まれた。
 圧迫されるその衝撃に体内の骨が軋み、喉奥からこみ上げ吐き出されるのは、熱を持った血液だ。 衝撃に体内のどこかが傷つけられたのか。 浅く咳き込みながらも吐き出すものは血。血。血……その色は、霞む視界に何と鮮やか。

「フォルテ!」
「フォルテさん!」

 ケイナとカイナの声が届く。
 それでも強い衝撃に立ち直ることは出来ず、苦悶の声を洩らしながら膝をつけば、そんなフォルテを笑うかのように鬼へと変じたリゴールが、天へ向かって咆哮を轟かせた。

「グルオオオァアアアァアアァァァーーーーーーーーーーッッッァ!!!」

 放たれたそれは、津波のようだった。
 窓ガラスは強風に煽られたかのようにガタガタと激しく揺さぶられ、空気が、壁が、空間の全てが大音量で響き渡るその咆哮に脅え、ビリビリと震え、その勢いに呑まれてしまいかねないほどまでの威圧が、<リゴールだった者>から放たれる。

 その声に呑まれぬよう堪えながら、カイナは顔をあげて、きっとキュラーを睨めつけた。

「こんなにも鬼と溶け込んでいるなんて……随分前から、鬼を憑けて…この方を苦しませていたのですか!」
「言ったでしょう。 ワタクシは手を抜かない主義なのだと――だからこそ、用意も準備も念入りに、じっくりとすませました」

 そこで、キュラーはゆっくりと玉座から立ち上がった。
 夜を思わせる濃紺色のローブが緋色の床の上を軽やかに踊り、その長い足は、平伏した身体をどうにか起こそうとしていたシャムロックの背を、背骨を折らんばかりに踏みにじる。

「っぐ――!」

 酷く、生々しい音をたててシャムロックの身体が仰け反った。
 しかし対するキュラーの顔は、なんとも言わんばかりに涼やかだ。 いや、その唇に浮かぶ笑みは愉快めいたものも見える…キュラーは腕を動かすことの出来ない騎士の、柔らかな前髪を掴んで顔を持ち上げて、自らへと引き寄せた。
 そしてその薄い唇から、とても優しい…優しすぎてぞっとするくらいの囁きが、シャムロックの鼓膜に触れる。

「諦めなさい」
「――――」
「そうなれば少なくとも、貴方は解放される。 苦しむことにも、悲しむことにも…馬鹿らしいではありませんか。 奪うワタクシが言うのも何ですが、力がない者が負けるのは戦の理。 すでに奪われてしまったものを貴方がそこまでする必要はないと思いますが」

 言葉が、染み込んでゆく。
 声に魔力か何かの力があるのか、なんと、魅力的に聴こえるのだろう。
 意識が、思考が、溶けていくようだ。

「身を削って、自らを痛めつけて、それで貴方に何が還るのですか?」
「―――っ」
「貴方は既に負けている。 聡明な貴方ならそれを覆す事も、取り戻すことも無理なのだとわかっているはずでしょうに」

 …力が、抜けていく。

「貴方のような人間は利用しやすそうなので、無理であることを、無理にでも取り戻せと言われたこともあったでしょうが…」

 囁きが、甘く聴こえる。
 書物には悪魔に誘惑された人間の物語があるが、けれどそれは、こういうものなのだろうか。

「そして貴方は死にそうになるまでに身を削って尽くすのに、貴方には何も還らないなどと、理不尽ではないですか」

 手が離れ、ずるりと、シャムロックの身体が地面に落とされた。
 身体が、鉛のように重い。
 誰の声も聴こえなくなって、視界は次第に、薄く、白んでゆく―――。

「無理だと分かって削っているのに何も還らない。
 それでもどれだけを身を削っても他人の心にも届かないこともわかっている。
 今もそうです――覆すことは出来ないというのに、なのに何故貴方がそれを繰り返そうとするのかワタクシは理解に苦しみますね」



 届かない。


    ”――届かない?”


 還らない。


    
”――それは本当に?”








 そんなことは、ないだろう







 するりと浮かんだその答えに、シャムロックは天井を見上げて。
 ほっと、身体の力を抜いた。

(そう)

(これは、自己満足でも良い)

(私が、望んだことなのだから)

 時々、思う。
 誰がどう考えても無理だと思うのに、それでも自分はどうにかしてやりたくて。
 けれどやっぱりどうにも出来なくて、怒鳴られたことがある。
 そうして、誰かに恨まれた事もある。
 そうして、誰かに殴られた事もある。

 決して器用ではない、生き方。
 だがそうした生き方でしか出来なかったし。
 そうしていればいつか、覆せることも、取り戻せるものもあるのではないかと思ったから。



 何もしないよりかは、こんな自分でも何かを得るのではないかと思っていたから。




 ――――自分は、剣だけを握って生きてきたつまらない人間だ。




 若者らしい遊びを知らない。
 この歳になって一口も酒を飲めない。
 賭け事も勝負にならず。
 今でも繁華街は苦手だ。
 一人の男として、女性を満足に扱うことも出来ない。

 思い出せば出すほど自分の情けなさを思い知るが、それも全て事実。





 けれどそんな自分にも、想いは、還ってきたこともあっただろう?





 無理をしてでも行ったことで、還ってきたものが確かに、あっただろう?







”―――憎い仇を、あたしなんかのためにどうにか別の見方をしようだなんて―――”







 泣いていたあの人は。



 ぎこちなくとも、それでも最後は、笑ってくれたじゃないか。



 心に膿んだ傷口を広げるような思いをしながらもそれでも、
 ルヴァイドたちへの見方を変えるのだと決意をすれば。



 俯いたまま涙声で、”ありがとう”と。








 それはどんなに、嬉しかっただろう。








 ―――ありがとう、と。
 自分でもわからないくらい、そんな小さな言葉が、とても嬉しいと思った。
 思ったからこそ、この生き方でもいいと、そうしたささやかなものを求めて生きてきた。



(還るものは、ある)




 還るものは、決して大きくなくても良いのだ。



 本当に。
 本当に、ささやかなものでいいのだ。







”ま、これからもよろしく”







 そして本当は





 あのとき救われたのは、やっぱり、自分のほうなのだ。







(―――助け、なくては)

 も。
 あの男の手に落ちても、まだ、この城のどこかにいるのならば助けなければ。
 デグレアが彼女の存在を手に入れようと求めるなら、鬼に変えらているはずがない。

(まだ望みはある―――)

 確たる意志に、思考が、晴れやかなものとなる。
 動くことのなかった指がシャムロックの意志に従うように、そろりと、腰に忍ばせている短剣を握り締めた。 柄の固い感触がより緊張に強張る身体をほぐして、金縛りめいたそれを解いてゆく。

「――い」
「何…?」
「私は、まだ、―――諦めるわけにはいかない…!」

 瞬間。 閃くのは、柄と刃の短い、鋼の刀身。
 至近距離からの奇襲に反応出来ず驚愕の表情を浮かべるキュラーの横腹に、力を込めてそれを穿つ。 肉に食い込む感触が手に伝わり、鉄錆びた臭いがキュラーの胸に頭を押し付けているシャムロックの鼻腔にこびりつく。
 大声を出す事のなかったキュラーの唇から溢れたのは絶叫だ。
 どんなに強い魔力や召喚獣を従えていても、生身の身体を貫く激痛は共通のはずだ。 これでこの男を倒せなくとも、重傷さえ与えることが出来ればそれで―――!

「この、貴様…!!」
「っ?!」

 しかしキュラーは、重傷を負う者の表情をしていなかった。
 召喚師らしくそこそこに細腕だというのに、その腕が繰り出した信じられないほどの強い力でシャムロックを突き飛ばし、血を零しながら柄まで刺さったそれを苦しげに引き抜いて、荒々しく短剣を投げ捨てた。 けたたましい音をたてて、それは石床を滑っていく。
 彼が受けた痛みは本物だろう。
 苦痛に歪む表情はそれを物語っている…しかし短剣を引き抜いたあとの処置は、何もなかった。 ぼたぼたと溢れ出る血でローブを染めるその傷口を大した物でもないかのように平然と立ち、神経質そうなその顔に苛立ちめいたものを浮かべてシャムロックを見下ろしている。

 ……まるで、こんな傷では死なないと言わんばかりの、異質さだ。

「さすがはトライドラ騎士と言ったところですか…小賢しいマネをしてくれました」

 キュラーの腕が掲げられれば、まどろむように蠢く赤い光が掲げた片腕を包み込む。
 血のように赤いその光は召喚術を行使しようとする主に力を与えているのか、赤い粒子が謁見室の天井を舞うごとに、好む瘴気の匂いを嗅ぎ取ってか鬼たちが悦びに騒ぎ始めている。

「隙あらば鬼にしてやろうと考えたワタクシが浅はかだったようですね」

 キュラーの片腕に宿る赤い光が、どろりと、黒く濁った。
 それは突き飛ばされたまま、痛めつけられた身体を動かす事ができないシャムロックの頭上にゆらりと降ろされ、その腕を伝って滴れ落ちる黒い泥は、リゴールに宿る鬼と同じく、快楽に悦ぶ暗い瞳をぎらぎらと輝かせてシャムロックを見据えている。


「―――このまま鬼と変じませい」


 冷たく、短い、死の宣告。
 トリスたちはそれを止めようとするが間に合わず、
 フォルテもまた満足に動くことも出来ない。

 鬼と化したリゴールもまた、その光景を静かに見守っている。


 キュラーが呼び出した、死の空気がシャムロックの頬をかすめて過ぎていく。


 だが、その瞬間。
 玉座の右から、一つの影が飛び出した。

 小さな影は、赤黒い光に怯むことなくキュラーの真横に滑り込み。
 腹の底から息を吸って、思い切り腕を振り上げて。


「A・GO・クラーーーーーーーーッシュ!!」


 そうして彼女は召喚師の。

 顎といいつつこめかみを、陶器の壷で殴打した。

















 ――――馬の嘶きが、帳の下りた、広い世界に木霊する。
 その啼き声は安息に眠る世界をあっけなく破り捨て、一つの異常を世界に知らせた。

「ヒヒィィイィンッ!」

 馬の嘶き。 それは戸惑い交じりの、悲鳴だ。
 それも当然。 彼は主が操るままに全速力で駆けていたのだ。 全速力で駆ける足が急に止まれば駆ける力と勢いは行き場をなくす。 それらは、行き場をなくせば持て余すしかない。
 強い力の制止に驚きの悲鳴をあげ、それでも転倒の危機を回避しようと前足を浮かせる。

 だが彼の主は混乱を起こす馬を抑えようと、手馴れた動作で綱を操った。
 馬を倒すまいとして巧みに操られたそれはあっけなく、彼に冷静さを取り戻させた。 我に返ったその馬は、何故自分は混乱していたのだろうと不思議そうに目を瞬かせたあと、やがて本来の力強い安定感を持って再び、地面に前足をつけて着地する。

 どすんと、巨体が地面に落ち着く音が響く。
 しかし落ち着いた彼は、責めるように漆黒の丸い瞳を主に向けた。
 もとより突然の制止が原因だったのだ…しかし、事が無事収まったことを見ずとも理解していた彼の主は、まったく別物に集中するかのように俯いていた。

「―――」

 武骨な指が、羊皮紙に描かれた地図の文字を追うようになぞる。

 ―――<トライドラ>―――。
 それはこの国に生きる者誰もが知る都市であり盾の名。
 盾の名を得ながら有能な騎士を数多く輩出し、剣さえも生み出してきた都市の名。
 長い歴史の中で外部からの侵攻や敵視されている隣国の動向を見つめ、この国を守り続けてきた者達の名だ。

「――――トライドラ」

 冷気を帯びた風が、男の呟きと共に赤い髪をさらう。
 翻る、紫がかった赤い髪。 長い毛先は軽やかに踊り、漆黒の外套もまた軽い音をたてて闇に踊り、その姿は優雅ささえも抱かせる。

 世界を巡る風が、主と、彼に吹き付けて過ぎて行く。
 しかしそれを意に介さず、主と彼は、視界の先にそびえ立つ巨大な王城を映していた。



 それは、目的の地。

 休む間もなく走り続けて目指した、都市。



 しかし、都市は闇に沈んでいた。
 深夜に差し掛かる時刻でもないというのにまるで賑わいが見えない。 夕食を楽しむ家もなく、食事を終えて家族との団欒のひと時を過ごす家も、酒場の明かりさえもなく…全てが、暗闇に沈んでいる。
 闇に沈む都市から風が運ぶのは、濃厚な死の臭いだ。


 ―――手綱を掴んでいる腕が、出発を急くように力強く振るわれた。
 しかし今度は驚くこともなく、突然の合図に呼応して彼は動き。


 待ち望んでいたかのように、強靭な足を闇に沈む都市へと走らせた。




 ――――目指す先は、闇に落ちた都市の王城。







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2006.1.8